まつもとあつしの日々徒然

はてなダイアリーからようやく移行しました

「意識高い」とはどういう状態か?なぜバカにされるのか?という話。

エヴァQ、実は初見だったのですが、評判通り訳が分からなかったです。20代から謎に付き合わされている身としては、そろそろ決着を見せて欲しいところだけれど、そもそも謎に対する答えや落としどころの用意されていない物語なんだろうな、と約20年を掛けて確認しているところです。というか、社会人経験を積めば積むほど、「え!?なんで、そこでちゃんと説明してあげないの?」というツッコミどころの方が気になってしまい・・・・・・。でも、この話、頭から終わりまで「ほうれんそう」が出来ていたら、多分成立しないんだろうな、とも。

そんな感じで、Twitterを眺めていたところ、津田さんが話題のマトリクスにツッコミを入れておられたので、その件について少々。

はい。仰ること、とてもよく分かります。と、同時にいわゆる「意識高い系」に自分も含めて多くの人が「イラッ」としていることも事実。さて、落としどころはどこに?

このマトリクス(※現在削除されているようです→#2014/09/07 図を再掲されたので、こちらもリンクを追加しました)、基本的な考え方は間違っていないと思うのですが、縦軸に「実力」と置いているのが、改善の余地があると言えそうです。実力ってなんだろう?誰がそれを測るんだろうか?本人は「ある」と信じているからこその意識高い系であり、周囲は「ない」と感じるからこその批判であり、同意も込めたRTがこれだけ積み上がるのでしょう。

ちょうど今、このテーマを正面から扱った(と僕は思う)ドラマが人気です。

アオイホノオ DVD BOX(5枚組)

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80年代を舞台に描かれるこの作品。主人公ホノオモユルくんは、物語序盤は「俺には実力がある」と信じて疑いません。その根拠が初期のあだち充作品などに価値を見出し、俺が評価している、という目利きの才能にある、というのも、どこか現代の「意識高い系」に通じるものがあります。(だからこそ、いまこの物語が取り上げられたのかも知れませんね)

ところが物語が進むにつれ、後にガイナックスを創業することになる同級生アンノヒデアキさんらの活躍にも刺激され、彼はマンガの持ち込みを決意します。作品の方向性に迷ったり、実際に作品を描く際に思いもよらない困難が立ちふさがったりと、七転八倒の末、作品が完成し・・・・・・。

ざっくりとした紹介となってしまいますが、このような流れで物語は進行します。物語のカタルシスの1つは、主人公が信じて疑わない「実力」が、実際に行動を起こすと、現実には全く通用しないものだと思い知らされること。そして、持ち込み〜プロマンガ家デビューへという「実績」を何とかつかみ取ろうとするその姿にあるのは間違いありません。

ということで、先ほどのマトリクス、縦軸を「実績」としてはどうかなと思いました。客観的な「実績」であれば少なくとも、主観的な「実力」よりも本人も周囲も測りやすい。実績がなければ相手にされないのは現実だし、逆もまた然り。そして、実績がなくても応援してくれる周囲の人々が、かけがえのない存在であることも物語では繰り返し描かれているようにも思えます。

原作のオカダトシオさんのセリフで思わず膝を打ちました。以下引用で締めくくります。

よく、『これは俺が先に考えてたんや!』って言うアホがおるけど・・・
一番みっともない言葉や。
自分が先に考えたのにやらんかったんや。
それをえばっとんねんからホンマのアホやで!
先に考えてんやったら
先にやらな!!



#2014/09/06 追記
起きてホッテントリ入りしてびっくりしました。
加野瀬さんのコメントから読んで頂いた方が多いのかも知れないですね。

まつもとさんの親切な解説。自分しか認識できない「実力」をどう実績に変えていくのか?というのは難しい

「自分しか認識できない「実力」をどう実績に変えていくのか?」というのは、この問題への本質的な問いかけです。

ちょっと宣伝ぽくなってしまうのですが、実は堀正岳さんとの新著でその問いへの答えを「3極モデル」という形で整理していたりします。

知的生産の技術とセンス ~知の巨人・梅棹忠夫に学ぶ情報活用術~ (マイナビ新書)

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これについても、いずれ詳しく(もしかすると堀さんのブログなどで、となるかも知れませんが)紹介することができればと思っています。

Twitterでのコミュニケーションのこと、あるいはアイデンティティの拡散のこと。

思い出のマーニー、良かったです。

それに触発されたかも知れません。コミュニケーションについて個人的なメモも兼ねて。少々長文で以下マーニーとは(ほぼ)関係がありません。

今でこそ、インタビューや司会・講演のお仕事などもさせて頂くようになりましたが、大学生のころまでは人前で話すことが本当に苦手で、飲み会でも貝になっているクラスタでした。自分が話したことが、相手にどう受止められるのか、とても怖かったんだと思います。

それを変えるきっかけになったのが当時の先輩で、とにかく何か話せ、自分がフォローするからと言ってかなり強引に背中を押してくれたんですね。最初のころは、「僕つまり・・・思う・・・こういう風に」という具合に日本語としてもかなり危なげだったはずなのですが、その都度その先輩が「まつもと、面白い!」ってフォローしてくれて、だんだんと自信がついていったのを覚えています。

当時から文章を書くのは得意な方でした。でも、ブログどころかネットすら無かった当時は文章で自分を表現しても相手に伝えることはとても難しい時代だったと思います。「自分の文章を読んでください」とお願いするのも、まずはリアルな空間で会話を通じてフィジカルに行わざるを得ない、ということが多かったのではないかと。

その後ブログが登場し、いまやTwitterも存在するわけで、文章で自分を表現して相手にそれを伝えるということは格段にハードルが下がりました。たった140文字で自分を世界に表現できるなんて!

しかし、一方でふと違和感を覚えることも増えたのです。Twitterでのコミュニケーションって一体なんなんだろうかと。

TwitterFacebookのようなSNSではなくメディアだと、Twitter社自身も定義しています。しかし昨年夏に世間を騒がしたバイト先でのイタズラ投稿などを追いかけると、身近な友だちとのやり取りに使っているケースが多いことに気づかされます。また、パソコン時代のフォーラムのように見知らぬ人とのコミュニケーションを楽しむ人もいます。

わたし自身もTwitterを使い始めた当初は、そんな使い方に面白さを感じていました。自分がフォローした人からメンションをもらったり、逆に自分をフォローしてくれている人からコメントをもらったりすると、「おお」と興奮することも多かったと記憶しています。(その経緯は、インプレスさんでの体当たり企画で記事としても纏まっています。フリーランスとして駆け出しだった自分にとって、Twitterはメディアである以上に、コミュニケーションのための道具であったということがよく分かります)

しかし、フォロワー数がある程度増えて、自分の活動領域も広がってくると、首を傾げたくなるようなコメントや、明らかな煽りや炎上狙いのメンションを受け取ることも増えていきました。例えばこれとか。当時、ここで絡んでいた人はTweetの合間に「バカ」など罵倒を含めていたのですが、Togetterにまとめる際にそのTweetは削除して「バカと言ってないのに、罵倒したと言いがかりをつけている」という具合に纏めていたりもします。「微妙なバランス」と言ったものを、タイトルでは「絶妙」と読み替えてあるなど、なるほどそうやって炎上を演出するんだなと妙に感心した記憶があります。

そんな出来事があってから、うん、やはりTwitterSNSじゃなくてメディアだなと腑に落ちたのでした。よく「匿名なのは卑怯だ」という批判があったりしますが、そういうことではなく、実名であろうが顕名であろうが、この空間でのコミュニケーションはリアル空間でのフィジカルな濃密さには及ぶべくもなく、あくまでも道具であり、そこになんらかの「目的」(ゴールや理想と言い換えても良いかも知れません)を求めても虚しいことになるな、ということです。

かつてのフォーラムは閉鎖された空間であったために、その場の暗黙のルールや管理者による交通整理が期待出来たわけですが、原則としてオープンな場であるTwitterは、そういった空気や文脈と切り離された形でコミュニケーションの一部が、場合によってはグロテスクに紹介されることもある。そして、それによって受けたダメージというのはなかなか直ぐには回復が難しいわけです。

そこまで大げさな事例でなくても、例えば「いま悩んでいる」というTweetに対して、フォロワーが「よしよし大丈夫だよ」と慰めてくれても、次の瞬間にはまったく別のトピックスに彼・彼女は楽しそうに反応していたりする。フィジカルな空間では窘(とが)められるような行為が、スマホでのアプリの切替え、テレビのザッピングのように普通に(本人には悪気無く)行われている空間でもあります。

あるいは「ブロック」がまた特徴的です。気に入らなければその人の投稿を即座に目に入らないようにすることができる。村上春樹の「風の歌を聴け」に「パチン・・・・・・OFFさ」という印象的なセリフがありますが、まさにそんな感じ。

そんな風に考えていた時に、ある人からこんな記事を教えてもらったのでした。
やる気がわいてくるたった1つの方法:ツイッターじゃ消せないむなしさ - 誠 Biz.ID

ここで紹介されている「アイデンティティの拡散」は、エリクソンの自我同一性拡散と言った方がその筋の人には分かりやすいかも知れません。

ちなみに記事では4つの兆候が紹介されていますが、専門的にはこちらの6つの分類がより詳しいです。
自我同一拡散

例えば、ここに挙げられている「対人的距離の失調=暫定的な形での遊技的な親密さや一時的可逆的なかかわりあいが、本人の対人的融合になってしまう」などは身近な人でも苦労されている例がしばしば見受けられます。

確かにTwitterでのコミュニケーションはアイデンティティがある程度確立されていないと、難しいものがあると感じます。自分自身のスタンスが定まらないままに押し寄せるメンションに応じ、何らかのきっかけでうっかり問題発言を行ってしまい、それがRTされたりした日には、まさに悪い意味での拡散となってしまいます。

いかにも米国発のサービスらしいとも言えそうですが、自由であり、オープンであるということは、応分の責任を負うだけの自我が求められるということかも知れません。(余談でありますが、従って鬱病など精神的に厳しい状況にある人はTwitterからはしばらく距離を置いた方が良く、周囲もそのつもりで対応した方が良いというのが持論です)

さて、この記事で目を引くのは、ここからニーチェを引き合いに「現代人は神話を奪われている」という主張を紹介している点です。神話=物語と自我の形成は密接な関係にあることはフロイトも指摘しているところですが、アイデンティティの拡散と神話の喪失という流れで「Twitterでは消せない虚しさ」を説明するというのは上手いと思いました。(本のタイトルのように「やる気がわいてくる」話かどうかはともかくとして)

やる気がいつの間にかわいてくるたった1つの方法

やる気がいつの間にかわいてくるたった1つの方法

僕は以前から、「ネット依存」という言葉には強い反感を持っています。病気と認められた訳では無いのに「ネット依存症」と「症」を付けるのはもってのほかであるというのはもちろんなのですが、「いつもTwitterやLINEをやっていてけしからん」という意味でその利用を制限する、その際にこの言葉が用いられるのはヘンです。端的に言えば雑な議論だと思っています。インターネットがこれだけ普及し、多様なサービスが存在する中、「ネット=悪」と十把一絡げにした議論をするのは不毛であるばかりか、有害とすら思います。

「お風呂中は使いません」宣言用紙をスマホ契約時に配布、都がネット依存対策 -INTERNET Watch

だから、Twitterへの「依存」が問題であるという主張はしないつもりでいます。そうではなく、先の記事で説明されていた神話、物語の喪失というのが問題の本質だと考えています。「こうありたい、こうあるべき自分」という自我を支える物語が現実空間で得にくいところに、仮想空間で社会を形成しているMMORPG(オンラインRPG)はある種の生きがいを提供し支持を拡げた側面は否定できないはずです。「ネット依存」という言葉を普及させた久里浜医療センターの樋口進院長自らも、ネットの進化によって他のサービスがその原因になり得るかも知れないと前置きした上で「現在までにセンターに寄せられた相談はオンラインゲームが圧倒的に多い」とコメント*1しています。個人的にはそうであれば「ネット依存」という言葉ではなく「オンラインゲーム依存」とした方が、少なくとも現状を表すには適切では無かったのではないかと感じてもいます。

おそらくこの問題は、その当事者がいま置かれている状態――つまり「物語」を喪失して生きづらい状況にあるのか、現実社会の延長線上にある場でのコミュニケーションツール(既にある物語を補完する)としてネットと向き合っているのか、はたまたスティグマを抱えたもの同士が互いを理解し、良くも悪くも慰め合う(新しい物語を紡ぎ出す)場となっているのか――といった場合ごとに事情や、注意すべき点などが異なってくるはずです。

そういった辺りを気に留めながら、ネットをコミュニケーションの「経路」として利用しながら、本質的には現実空間で向き合い、時にはぶつかり合うことで互いの、あるいは社会の物語を共有していく他ないのだろうなと、改めて思う次第です。マーニーにはネットは登場しませんが(スマホすら出てこなかった?)、バーチャルな空間での交流の背景にあるものが、やがて現実世界との関係で解き明かされていく終盤の展開は見事だと思いました。

#2014/08/08 14:50 自我同一性拡散についてのリンクと例を追記しました。

*1:記者の眼 - 子供のネット依存、治療に当たる久里浜医療センター院長が「生易しい問題ではない」と警告:ITpro http://itpro.nikkeibp.co.jp/article/Watcher/20130720/492762/

(告知)マチアソビに参加します

世間ではもう連休が始まったということを先ほど知って、驚愕しています。

さて、その連休中(5月3日〜5日)に徳島市マチアソビが開催されます。

今回、元オタクラート・現在はオックスフォード大でアニメを研究している三原龍太郎さんと一緒にパラソルブース「アニメ学研究所(仮)@マチアソビ」を出展することになりました。

そして、初日には京都精華大学でアニメーション史を研究されている津堅信之先生もお招きして「アニメ研究者緊急対談@マチ★アソビ! クール・ジャパンの明日はどっちだ?」と銘打ったイベントを行います。まつもとは進行役を務めます。

日時:5月3日(土)10時〜11時
於:両国橋南公園ステージ

1. そもそもクール・ジャパンとはなんなのか?

2. なぜ批判されるのか?

  • 推進会議を中心とした問題点
  • 国が後押しすると育たない?
  • メディアの報じ方/ネットの受け止め方

3. クール・ジャパンを好機にできるのか?

  • クール・ジャパンをどう捉えればよいのか?(ユーザー・業界)
  • 見るべき、チェックすべきメディアはあるか?
  • 政策はどのようにあるべきか?
  • 研究はどのようにあるべきか?

お二人は、最近著書を出されたばかりのまさに第一線のアニメ研究者。津堅先生にはインタビューをさせて頂いたこともあります。

相変わらずネットでは炎上しがちなクール・ジャパンをどう捉えていて、僕たちはどう向き合えばいいのか?そのポイントを明らかにできればと考えています。パラソルブースには私たちはもちろん飛び入り参加頂けるアニメ研究者も来場される予定です。書籍も一部販売します。

マチアソビ自体は何度も取材したり、イベントの司会を務めさせて頂いたりしていますが、出展するのははじめてで、実は分からないことだらけ。マチアソビにお越しの際には、生暖かく見守って頂ければ幸いです。

震災3年目も泥を運ぶ(記事振り返り)

東日本大震災から3年が経ちました。節目ではありますが、ひと区切りではないという認識です。
これまで取材・執筆してきた記事を振り返ります。(順不同・執筆記事の全てではありません)

ボランティアをしながら取材を行った東北でも、いまもがれき撤去と行方不明者の捜索を続けている人たちが大勢います。工場という生活の糧が失われてしまった町で、新しい産業を生み出そうと奔走されている方々への支援も続けられなくてはなりません。

被災地の困難をITはいかに解決することができるのか、問われ続けた3年間でもあったと思います。直下型地震がいつ起こってもおかしくないとされるここ東京も明日は「被災地」になるかも知れず、その備えは十分なのか?(そしてそれは先日の大雪による混乱などを見ても、まだまだ道半ばであると思えます)そんなことを考えながら都内でも取材を行いました。

震災直後の混乱、あるいはとても神経を使う取材や記事上の表現に共に尽力頂いた編集担当の皆さま、現地で案内やサポートを頂いた皆さま、そして取材に応じて頂いた皆さまに改めて感謝します。

自分の専門領域からは、未曾有の震災によって詰まるところ「誰のためのITなのか」という本質的な問いが表面化したのだと捉えています。このあたりは以下の本で言及しました。

[asin:B009PDWPMY:detail]

わたしにとってボランティアで泥を運ぶことと、様々な取り組みを記事で紹介することは同じくらい大切なことでした。3年という節目を経て、メディアの関心は離れていくのもまた事実ですが、引き続き復興の取り組みや、次なる災害への備えを追いかけていきたいと考えています。

コグレさんとの新刊「LINEビジネス成功術」イベントやります

LINEビジネス成功術-LINE@で売上150%アップ!

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「『成功術』ですか…」。先月発売となった新刊とのタイトル案を見たときに、口をついて出たのはこの言葉でした。ジャーナリストと研究者という立場=客観的な考察や批評が求められる人間としては、「成功術」というタイトルに一瞬戸惑いを感じてしまったのです。

けれども、コグレさんとのはじめての共著からわずか半年あまりで世界的なサービスとなったLINEに、個人商店でも商売に使える仕組みが整ったというのは、やはりすごいことです。iモードの時だって、CHTMLを使って「勝手」サイトを展開することは可能でしたが、運営しているLINE社が自ら審査やフォローアップを行うというのですから。

そのLINE@を中心に、私たちの本の少し前に出版された「LINE@ 公式ガイド」の著者植原正太郎さん(トライバルメディアハウス)、コグレさん(ネタフル)、私とで10月23日にイベントを行うことになりました。場所はコグレさんの地元にほど近い大宮です。

ヤフージャパンがショッピングやオークションを無料化するなど、Eコマースに大きな変化が訪れようとしていますが、大きな会社じゃなくたって地方や街のお店がITを使って、機会を掴むことができるような仕組みが整いつつあります。コグレさんのご尽力、大宮で商店街の方々のご協力を得て、今回のイベントが実現したのも、こういった時代背景もあってのことだと感じています。

当日は、この大きな潮流と、手軽に始められるLINE、LINE@との関係と、これからどうなる、、やるべきこと・やっちゃいけないことってなんだろうといったテーマでお話しして、皆さんと意見交換できればと思っています。お時間とご関心ある方は是非無料です。会場費のみ500円でした。すみません!

Twitterへのバカ写真投稿と意識高い人に共通する病

冷蔵庫に入ったり、食材の上に寝っ転がったりする様子を写真に撮り、Twitterに投稿するのが流行っているようです。

朝日新聞デジタル:(ニュースQ3)モラルなきアルバイト店員の悪ふざけ、対策は? - ニュース

一部には、これを安いメニューを安い人件費で提供するいわゆる「マックジョブ」(個人的にはとても嫌いな表現です)に、その理由を求める人も居るようですが、それは違うと思います。高級ホテルや会員制のクラブなどでも、同様の事件が起こっているからです。また、コンビニはそもそもディスカウントじゃなくて定価販売してるよね、という指摘もありました。

フランチャイズ契約を即刻解除されたコンビニ店もありましたが、気の毒なのはオーナーです。
もちろん監督責任は免れませんが、バイトの心ない行為で積み上げてきた物が一瞬で失われるわけですから。

では、なぜこんな事が流行っているのか?

実際に当事者に理由を尋ねてみたいところですが、いわゆる「意識の高い人」にも共通する一種の病がそこにはあるのではないかと考えています。

  • (非常に観測範囲の狭い)周囲に迷惑を掛けていないのだから良いではないか、という判断。
  • 日常的に近くにいる「大人」が適切なフィードバックを与えていない。そういう人を遠ざけている。
  • RTなどソーシャルメディアでの反応をポジティブな「評価」と勘違いしている。

仮に、このように共通する背景がそこにあるとすると、アクセス向上のためにはいわゆる「炎上」を良しとするブロガーさんが、こういった事件の理由を職場環境に求めるのは、滑稽だし彼らが言うところの「上から目線」な話だなと思った次第です。

(2013/08/073:16追記)
これを書いてから、店長さんの以下のエントリーを知る。
「うちら」の世界 - 24時間残念営業
そう、彼ら(バイト)がバカだ、という一言では片付けられないんですよね。
とはいえ、明らかに損害を与えている訳で、まず責められるは彼らだし、社会的な責任を認識してもらう必要がある。(本当は一線を越える前に、周囲の大人が諫めないといけないのだけれど)

「上から目線」は評価の証

フリーランスノマドソーシャルメディア評価経済

最近よく目にする、これらのキーワード。
その関係はよく以下のように解説されます。

ソーシャルメディアの一般化によって、フリーランスであっても、スキルのPRが行えるようになり、そこで仕事の依頼を受けることができるようになった。働く上でも、場所に縛られないノマドワーキングが可能に。そこではまずフォロワー数やKloutで数値化されるような影響力が評価のレバレッジを効かせるための重要な要素となる。したがって、貨幣経済の手前に評価を指標とするような経済圏が誕生した」

うん、まあそうなんだと思います。日経ビジネスが定期的に発表しているような企業ブランド力ランキングと同様、個人ブランドの価値がTwitterによって可視化しやすくなったことは間違いない。

会社や国による社会保障に期待が持てない中、個人で生きていくために、ソーシャルメディアを活用しよう!というかけ声は前向きで、就職難の中、学生にとっても魅力に溢れるものにも映るようです。

でも、どうも違和感が否めない。ネット上でも、いわゆるソーシャル・ノマド礼賛に対する反発が散見されます。その理由はなんなのでしょうか?

▼残念ながら脇が甘い

そんな疑問を持っていたのですが、ネットを介してだけでは分からないこともあるのかなと思い、イケダハヤトさんが登壇するワークショップとイベントに2回連続して参加しました。自分が登壇するイベントとか、議員会館での取材を縫って……もはやファンの域に達しています(笑)

最初に参加させて頂いたのは、ガ島通信の藤代裕之さんが代表運営委員をつとめるJCEJ(日本ジャーナリスト教育センター)主催のこちらのイベントです。

それで見えてきたことは、やっぱりイケダさんはまだまだ経験が浅い、ということでした。厳しいようですが、これは自分が実地で感じたことなので、敢えて指摘します。

イベント前半は「分かりやすいデザイン」についての講演でした。そこでイケダさんはAJAX等をフル活用したインタラクティブ奨学金募集サイト と、名前は出しませんが、よく楽天市場にありそうな縦長・情報一杯のページを比較されました。

その上で「言わずもがな前者の方が分かりやすいですよね」として、イケダさんは後半のワークショップにつなげて行かれました。けれども(これは後半に入る前に思わず質問しちゃったんですが)そこに根拠はありませんでした。

楽天市場のページはなぜああいうデザインなのか」という一連の議論をみてもわかりますが、実際コンバージョンが高くなるという根拠があるから、ああいったデザインになるわけで、見た目の美しさやデザインとしての洗練だけでは測れないものがそこにはあります。

つまり、コンバージョンレートのような数字とデザインはセットで語られるべき、という当たり前の話であります。イケダさんは、トライバルメディアハウスにおられたマーケターなので、その点は抑えていると思っていただけに残念でした。

「善し悪し」の基準が明確かつ適切でなければ、後半のワークショップの価値(アウトプット)は曖昧なものになるのでは……という不安は後半現実のものに。*1

後半は、イケダさんが支援しているというNPO法人が、助成金を得るために用意したプレゼン資料を見ながら、参加者でそれを「わかりやすい」ものにするという内容。詳細は開示しない方が良いと思いますが、プレゼンの概要は「鬱、あるいはその兆候のある人を、周囲の人々が傾聴のスキルを磨くことで支える」というもの。(どことなく「うつっぽ」に似る・・・)

改善に向けた題材に選ばれるだけあって、さすがに資料のデザインにも問題があるのですが、そもそもコンセプトとか発想のスタートラインが、相当脇が甘いわけです。

  • 鬱病患者の悩みを聞く、会話をするというのは医療行為にあたらないか?
  • 鬱病患者への接触に問題があり、かえって症状が進行してしまったり、あるいは関与者が悪い影響を受けた場合に誰が責任を取るのか?
  • 資料を見る限り、そのあたりのリスクをヘッジする専門家のアドバイスや監修を受けていない。

うーん微妙と思いながら、そもそもこのピッチって幾らの助成金の獲得を目指しているんだろう?と思い検索したところ、(これも名前を出しませんが)総額100万円で、5プロジェクトが採択されているということが分かりました。

つまり、1プロジェクト20万円程度。採択実績を見ると、子供と野外で遊ぶとか、映画を上映するとかそんな感じ。「鬱病をなんとかしたい」という心意気やよし。でも、20万円では継続的・包括的な取り組みは期待できない。事業計画も、リスクとの向き合い方も全く脇があまい。社会的包摂云々以前の問題です。

イケダさんの言う「問題意識を重視する」には大いに共感しますが、残念ながら、ワークショップに供してデザインを議論する前に、お互いのためにも黙って突き返す(べき)レベル。

イケダさん、ワークショップ参加者の方々の発表を聞いて「すごく助かりました」とコメント。たしかに、これだけダメが出れば、無償のアドバイス業務としては十二分過ぎる成果だと思います。

▼脇の甘さをどう受け止めるか?

さて、イベントが終わってから、主催者の藤代さんと立ち話をしていたのですが、そこでの藤代さんのコメントがとても印象的でした。ご本人のご了承得てご紹介します。

「色々批判があることは知っているけれど、直接話を聞いてみないと分からないこともある。不十分な点はあるだろうけど、若いけれど考えていることは分かったし、JCEJはチャレンジを応援する場でもあるから」

僕はこれを聞いて、なるほど!と思いました。この文章の前半で書いたように、プロジェクトを評価するという観点でいえば、もう全然ダメ、お帰りください、というレベル。けれども、一人の若者としてみると、真面目だし、悪いことを考えているわけではないし、よく事例を研究しているし、地頭も良い、何よりも物腰が柔らかい(←ここ重要)。

ところが、仮に対等なビジネスパートナーとしてみると落第点で、高広伯彦さんが色々仰る批判に僕もまったく同感です。でも、藤代さんは、JCEJに集う若者たちを見るのと同じ視座にたっている。そういう目線だと「がんばれよ」となる。

つまり、イケダさんの嫌う「上から目線」とは、実は彼を「応援」している年長者の視線=暖かく見守る視線、なんですね。逆に、イケダさんを対等な立場に置くと「評価」して、彼が表明する「社会を変えてやる」という思いを「正面」から受け止めると、その脇の甘さ、結果を伴わない言動を指摘・批判をせざるを得なくなる。立ち位置を評価しているからこその厳しさになるわけです。

こんな具合に、ご本人の認識とおそらく180度異なる構図が見えた、というだけでもこのイベントに参加した価値があったなあ、と思いました。

▼結局は世代間の話に

そして月曜日、衆議院議員会館で著作隣接権に関する勉強会に出たあとで、こちらのイベントへ。

リアル経済と知財をどう結びつけようかという地上戦を目の当たりにしたあとに、ふわふわした話を聞くことになるんじゃないかなと心配したのですが、東さんがそこは的確な指摘をされていました。そのコメント(お話しを伺いながらのTwitter投稿の引用につき、一字一句このとおりではありません)をご紹介してこのエントリーを締めたいと思います。

東「個人についてこうなった方がいい、というのと社会についてのことを混ぜてはいけない。自己啓発と同じで全員が勝ってしまったら勝者はいなくなる。カリスマは希少財。個人の価値で生き残っていけない人をどうするか、が重要。評価経済社会保障の破綻を乗り切る、というのは言語矛盾に等しい」

このコメントがイベント冒頭すぐ出て、もう結論が出てしまった感がありました。東さんはさらに続けます。

東「例えば(津田くんのように)政治メディアを作って、政策に影響を与えるために人を雇う、人を育てるためにはおカネが必要。自由人が集ってフラットな関係で物事にあたっても、そこにはコミットメントはない。月収20万とかじゃ無理。ハチロク世代の主張は『若いから』としか言いようがない」

この2つめの指摘は、東さんも15年前はそうだった(一人で出来る範囲でやればいいし、フラットな仲間で集まって取り組めばなんとかなると思っていた)ということを受けての発言でしたが、僕はそれを聞いてこう思い、呟きました。

まあ、しかし東さん世代と違って、皮肉にもイケダさんが仰るように社会保障に余裕がないなかで、フリーハンドで社会に放り出されて、「残酷な」評価経済に身を投じる若者、という構図。俯瞰すると笑えない話だなあと。自殺者増えている、という記事をみると尚更。

15年前の我彼は「若さ」と「技術(=当時はネット、いまはソーシャルメディア)に後押しされた感覚」では共通するものの、社会の厳しさは現実問題として深刻さを増しています。突き詰めていくと世代間に共通するものもありつつ、そこには乗り越えがたい断絶があるわけです。

東さんからの問いかけに対して、家入さん・イケダさんからは明確な反論はありませんでした。個人にフォーカスを当てている(?)家入さんはそれでも良いかもしれませんが、社会貢献、社会変革に取り組むというイケダさんにとっては行動原理の根幹に関わる問題です。東さんからの指摘を受けて「いずれは100人規模の会社をつくりたい」とイケダさんは応じていましたが、それはBLOGで雇われない生き方を推奨されることと矛盾しませんか、というのが率直な感想です。

ぜひイケダさんには諸々咀嚼した上での感想や思いを聞きたいと思いました。僕自身も苦い経験がありますが、このあたりのボタンの掛け違いは、やがて自己欺瞞に変わって、しんどくなりますので。

以上、上から目線というよりも、イベントへの一参加者という下からの目線でまとめてみました。

*1:ここで念のためJCEJさんの企画や運営は素晴らしいものでした。また、個人的にはなぜイケダハヤトさんに象徴されるフリーランス評価経済論に批判が集まるのか、実際に確認できたという意味で大変貴重な機会を得られたことを感謝しています。