まつもとあつしの日々徒然

はてなダイアリーからようやく移行しました

夏コミ参加します

1年に2回くらいのペースでの更新になっていますが、夏コミ参加の告知がようやくできる状況になりました。

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こんな感じの今年前半+αを振り返るコピー本を【3日目 東地区 "U" ブロック 33a】で頒布します。

印刷会社に頼もうかとも思いましたが、結局間に合わず。プリントアウト→ホチキス止め→テープ製本で頑張ってます。

よろしければ、冷やかしに来て頂けますと幸いです。

「この世界の片隅に」と「火垂るの墓」のこと

(※多少ネタバレを含みます)

www.youtube.com

 「この世界の片隅に」、もうご覧になりましたか?

恐れ多くもエンドクレジット(スペシャルサンクス)に名前を入れて頂いています。企画のホント初期の段階に立ち会ったのと、アプリ「舞台めぐり」でのいわゆる聖地巡礼をお手伝いしています。平仮名なので少々目立ちます、すみません……。

style.nikkei.com

しかし、コトリンゴさんの歌とともに文字が流れるころには、そんなことを忘れるくらい、いろんな感情が去来して座席で小さく震えていました。観た人が簡単に感動した、とか言えない凄みとでも言うべきものがこの作品にはあります。こうの史代先生の原作を読み込んでいたのに、物語の筋立ては分かっていたのに、それでもなお、頭をガーンと殴られたような鈍い感覚があります。正直気楽な映画ではない。でも、確実に誰かに見てもらいたくなる作品です。

上映後の劇場内の雰囲気、ちょっと懐かしくもありました。私と同じくらいの世代の方であれば、1988年の「となりのトトロ」と「火垂るの墓」同時上映のときのアレだといえば通じるでしょうか。「トトロ」でほっこりしたあとに、「火垂るの墓」で主人公の絶望を共有する。「忘れものを、届けにきました」が当時の映画のコピーでしたが、戦後をよく知るであろう世代の方々が、嗚咽をもらしていたのをよく覚えています。忘れたかったものを、生々しく目の前に差し出されたとき、人はたじろぎ、恐怖します。「忘れたかったのに、なんてものを思い出させてくれたんだ!」、と。あの時の嗚咽は、恐怖とないまぜになったどうにも収まりがつかない感情が、人間に働きかけたときのそれです。子供ながら、「トトロ」と「火垂るの墓」上映後インターバルの、客席のあまりの落差に驚き、映画というものはここまで人を希望へと誘い、絶望へと追い詰めることができるのかと、感嘆したものです。

そして今、「この世界の片隅に」が私を震えさせたのは、1つの作品、例えるならば1枚の絵で天にも登るような希望と、目を覆いたくなるような絶望を同時に提示しているから。それは一言で言ってしまえば人生そのものなのですが、「火垂るの墓」のそれが死によって終わる物語であるのに対して、「この世界の片隅に」のそれは、脈々と、すずさんたちのその後に続く私たちの今に地続きであるのです。バッドエンドではない、でもそれはある意味で、死んでお終い、よりもずっと重い。作中の描写のリアリティとも相まって、今を生きる私たちに、生々しい手触りを伴って劇場を去っても刻み込まれるーーそんな感覚に今も襲われています。(この「リアリティ」については、徳島マチ★アソビで片渕須直監督と真木太郎プロデューサーとのトークイベント司会をさせて頂いた際に、当日司会のお仕事を忘れるほど十二分に衝撃を受けていたはずでしたが、それでもやっぱり凄かった)

gigazine.net

戦後50年以上が過ぎ「戦争」の感触は遠いものになりました。先日編集協力を行った電子書籍のなかで田原総一朗さんは「戦争はダメだ、という絶対的な価値観は失われ、なぜ戦争がダメなのかを確認しなければならなくなった」という意味のコメントを寄せています。

amzn.asia

火垂るの墓」が前者の価値観のもとに絶望を描ききったのに対して、「この世界の片隅に」は後者を、静かに、けれども恐ろしいまでの説得力を持って訴えかけているようにも思えます。当たり前の日常と、大切なものが失われる不条理と、失われてわかるそのかけがえなさと、それでも生きていく人間の強さ(あるいはどうしようもなさ)を、ここまで描ききった片渕須直監督と関係者の皆様に改めて拍手を贈りたいと思います。

トトロは「火垂るの墓」をより幅広い層に知らしめるきっかけにもなりました。願わくば「この世界の片隅に」が長く、多くの人々に届きますように。僕ももう少し何かできないか考えてみます。

 

まず責めるのは学生ではなく運営ではないだろうか、という話。

本当に痛ましい事故が起ってしまいました。亡くなられたお子さんに心からお悔やみを申し上げます。ご両親のお気持ちを考えると胸が張りさけそうな気持ちになります。

www3.nhk.or.jp

 いまネット上には、この展示物を制作した学生を責める声に溢れています。

「なぜこんな燃えやすい構造にしたのか?」と火災を彼らが予見できなかったことに対する批判がその多くを占めているようです。

しかし、事の本質はそこではないように思えます。もちろん彼らにも大きな責任がありますが、私がこの事故で最も「拙い」と驚いたのは、主催者がこの火災の後もイベントを終了まで何事もなかったかのように続行したことです。

 上記記事には「火災のあと、入場はストップしたが、入場済の人には警察に了解をもらったうえで展示を見てもらった。消火作業は終わっており、現場にはフェンスも張っていた。混乱を招くおそれがあるため、アナウンスはしなかった」とあります。このことに運営者のリスク意識の無さが如実に表れているように思えます。

広く様々な個人・団体から「アート」という名目で作品を集める以上、そこにはさまざまなリスクが生じます。これは、例えばコミックマーケットのような同人誌イベントでも同様で、だからこそ運営側には高いスキルが求められます。

あれだけの作品数を事前にチェックするのは現実的に不可能だった、という指摘もあります。わたしもそれは同感です。たとえ事前に図面などでチェックしたとしても、当日現場でその仕様が変わることは容易に想像が付きます。だからこそ、現地での巡回が重要になるのです。多くの同人誌イベントでは、レギュレーション違反が当日、現地の巡回で発覚すれば、その状態が是正されるまでは販売・頒布の停止処置を受けることになります。

直接のリンクを貼ることは避けますが、今回の事故を受けての、東京デザインウィークの関係者のTweetやFacebook投稿を見ると、どこか他人事であるのが気になります。中には「今回のことから学んで次に活かさねばならない」と、はやくも次回も行われることを前提に総括をされているものすらあります。火災が起きたこと、被害者が出ることが避けられなかったことは、イベント運営者の能力に重大な欠陥があることを示しています。その時点で即刻イベントを中止にするべきではなかったでしょうか? そのこと1つをとっても、東京デザインウィークの再開は厳しいものがあると思います。

学生を責めるのは簡単ですが、自由な表現を楽しめる場にあって、それを普段は楽しんでいる側の「私たち」が、経験の浅い表現者を責め立てるのは筋が違うと考えています。多様な作品を集め、そこに人を集めて、何らかの利益を得る運営者こそが、一義的に大きな責任を負っています。現地での巡回はもちろん、内容に応じたゾーニングを行うといった対策によって避けられるリスクは少なくないのです。東京デザインウィークでは、そこを出展者や運営委託者に任せっきりにしていなかったのか? これからの検証を待つ必要がありますが、まずはそこに注目したいと思います。

(2016/11/08 2:30追記)

これを書いた少し後で公式サイトにお詫び文が公開されましたが、こちらがやはりよろしくありません。

TOKYO DESIGN WEEK 2016|TOKYO DESIGN WEEK 東京デザインウィーク

前略・草々といった挨拶文があるのも首を捻りますが、「事故原因の調査結果を待つことになります」という一文には驚かされました。自らによる調査や、証拠保全などの取り組みは行われないのでしょうか? また学校側が記者会見を開いて直ぐに謝罪したのに対し、原因の調査結果を待つ、というのはどういうことなのでしょうか? (2016/11/08追記:6日夜に記者会見が開かれました。ただ、報道の通りチェックのあり方については言及されていません)清水亮さんが怒りのブログを上げておられます。全く同感です。

d.hatena.ne.jp

 

#記事公開時、学校名に誤りがありました。お詫びして訂正します。

#2016/11/08 タイトルを変更しました。

ウェブコミュニティは「共創」と「競争」で物語を紡ぐ

1年以上ぶりの更新です。ブロガーへの道は険しいというか、無理かも。1個前のエントリーは、VAIOスマホ日本通信版)の蹉跌を取り上げましたが、VAIOさんはその後、Windowsフォンとして尖った端末を出してます。注目しております。

さて、今週末ウェブ小説やマンガに関するセミナーを渋谷で開催します。comicoの中の人をお招きしての無料のものですので、お気軽にご参加ください。comicoの解説本も会場限定特別価格で販売します。

再入門も、これからの人も「Re:ゼロから始めるcomico生活」
http://peatix.com/event/179130

このイベントは、僕も理事を務めるNPO法人日本独立作家同盟の主催によるものです。そこが発行している「群雛」という機関誌に寄稿したコラムの転載OK頂きましたので、僕がどんな風にウェブ小説・マンガを見ているか、という視点を先に提示しておきたいと思います。

ウェブ小説は文芸誌の代替か?
 ウェブ小説は「出版不況」(この言葉も適切なのか議論はあるが)に対する「回答」のように語られることが多い。いわく、文芸誌の休刊が相次ぎ、作品発表の機会が失われた中、ウェブ小説が新たな作品発表の場となっており、既存の枠組みに安住していた出版社はこのムーブメントに乗れなかった、といったものだ。
 一見もっともらしい意見だ。既存の出版業界にいろいろ思うところがある向きには、「よくぞやってくれた」という風に見立てたくなるほど、ウェブ小説は魅力的で強力な輝きを放っている。
 だが、ウェブ小説の歴史を振り返りつつ、調査や取材を続けていると、どうもこういった主張は間違っているように思えてくる。少なくとも建設的ではないとわたしは確信している。では、わたしたちはどのようにウェブ小説をとらえ、作家すなわちクリエイターとして、もしくは編集者のようなビジネスプロデューサーとしてこれと向き合っていけば良いのだろうか? 順を追ってみていこう。

ウェブ小説原作アニメに共通する世界観
 深夜アニメのラインナップを見ていると、ここ数年ウェブ小説──「小説家になろう」などの投稿サイト出自の物語が原作となった作品がほんとうに目に付くようになった。その多くがいわゆる「異世界ファンタジー」や「学園異能力バトル」ものだ。
 ある日突然ファンタジー世界に飛ばされた主人公が、現代の知識や技術を用いながら現地の人々と様々な困難を解決していく。あるいは能力者たちの集う学園に、逆位相の能力を持つ主人公が現れ、偏見のまなざしや彼らからの様々な挑戦を受けながら、試練を克服し仲間を得て自らの立ち位置を確立していく……。
 ただでさえ、1クール(3ヶ月)ごとに大量のアニメが放送される中で、一見ほとんど世界観が同じに思える作品が複数あったりする。「あれ? このヒロインは主人公の妹だったっけ? 恋人だったっけ? 先週はデレてたはずなのに、なんで今週は主人公の命を狙っているの?」と話が追えなくなってしまうのは、おそらく筆者だけではないはずだ。
 そこで描かれる異文化との交流、異なる社会構造との衝突と融和──なにゆえ民族学文化人類学的にど真ん中なアプローチの作品が、これほどまでに支持を拡げたのか? それは、これらの物語がインターネットコミュニティで生まれ、「共創」と「競争」の中から生まれたこととおそらく無関係ではないはずだ。

巨大掲示板から生まれた物語
 ウェブ小説を「ネット空間で発表される物語」と広義に捉えると、それ自体はインターネット登場以前から、電子掲示板などでもその萌芽を見てとれる。「小説家になろう」(以下「なろう」)が開設されたのは2004年。今から10年以上も前にさかのぼる。同じ年、2ちゃんねるに「電車男」が投稿され、その後書籍化・映像化に至ったことも、ウェブ小説の源流の1つと数えることもできるはずだ。
 恋愛とは縁遠いオタク男子が、勇気を振り絞って年上のお嬢さんとのデートに臨む。それを「毒男板」と呼ばれたスレッドのユーザーたちがサポートし、ハッピーエンドへと導いていく。振り返れば「電車男」は、2ちゃんねるでの投稿者とスレ住民たちのポジティブなコメントのやり取りが、感動的な物語を紡ぎ出した希有な例であったかも知れない。

電車男 DVD-BOX

電車男 DVD-BOX

 当時から「これは虚構ではないのか」という指摘もあったが、当事者たちにとってはそれが真実か否かはさほど重要ではなかったはずだ。インターネットコミュニティでの投稿を通じて、自分たちが物語に介入し、えもいわれぬ没入感を味わうという新しいエンターテインメントの原型がそこにはあった。
 一方で、電子掲示板でのコミュニケーションには困難もつきまとう。無粋な煽りや無関係なコメントに対する、コミュニティによる自浄作業にも限界がある。「電車男」以降、2ちゃんねるでこのような「大ヒット」に至る物語は結局生まれていない。
 掲示板で面白い物語を紡ぎ出すには、取り上げる主題の面白さや新鮮さ・リアリティの高さという偶発性に、最後まで一定のクオリティを保って投稿を続けるという投稿者の誠実さ、そしてスレッドの住民の自助努力が組み合わされなければならない。あまりにもコストが高すぎた、ということなのだろう。

著者と読者の「共創」環境
 掲示板での物語の創作と消費に入れ替わるような形で支持を拡げていったのが「なろう」に代表される小説投稿サイトだ。そこでは、物語の流れを妨げるような読者による直接的な介入は行われないが、感想・レビューという形でフィードバックを行うことができる。作者は1エピソードごとにそれらのフィードバックを参照しながら、次のエピソードで読者の期待に応えたり、逆に裏切って驚きを与え、またそれに読者が反応を返していく──という電車男でも見られた一種の共犯関係を構築していくことになる。その仕組みはとてもシンプルだが、従来の小説創作にはなかった「共創」環境が生まれた、と見立てることもできるだろう。
 そこで繰り広げられる「共創」の作業は、文化人類学におけるフィールドワークにも通じるものがある。フィールドワークでは異なる文化圏を訪れた研究者が、現地の自然、人々の生活、ヒエラルキー、経済の在り方などありとあらゆることを記録していく。その記録を研究者同士で評価し合い、彼我との比較も通じてその民族、文化圏に対する理解を深めていく。異世界ファンタジーが異世界という世界観を提示し、そこを訪れた読者とのバーチャルな「対話」を通じて物語を紡いでいく作業は、まさにフィールドワークそのものだ。結果、異世界モノとウェブ小説はとても相性が良い、という状況がこれほどまでに蓄積されたのではないか、と筆者は考えている。

文明の生態史観 (中公文庫)

文明の生態史観 (中公文庫)

物語に影響を与える「競争」環境
 さらにそこでは「競争」も繰り広げられる。言うまでもなくランキングの存在がそれだ。ランキングについては賛否両論あるだろう。異世界モノがこれほどまでに量産される背景には、投稿サイトで人気を獲得できるジャンルがそれだから、という指摘もある。先日はじまったKADOKAWAが運営する小説投稿サイト「カクヨム」では、こうなることを避けるため予め投稿ジャンルをわけ、それぞれにランキングを生成するという工夫を加えている(が、果たして前述のような「共創」との相性の良さがある中でジャンルの多様性が拡がるかは未知数だ)。
 いずれにせよ、読者によるダイレクトかつリアルタイムな選考が行われているのがウェブ小説の世界だ。この「競争」という側面は物語にも影響を与えていると考えるのはいきすぎだろうか? ジャンプでは読者アンケートによるランキングの善し悪しで掲載継続か否かが決まる。投稿サイトではランキング上位に入らないと、なかなか作品を読んでもらうことはできない。そんな緊張感の中で、異能力バトルものが多い、というのはどこか書き手の心象風景と重なる部分があるのではないか。
 結果、たしかに一見似ている作品が増える。しかし、エピソードを重ねると、作者が描きたかった主題と、読者との対話に応じて、物語は多様な姿を見せるようになる。最初はわたしも物語を追うことの難しさに苦労したが、最近ではどのあたりにそれぞれの差異が生じてくるのか、まさに作者の主題が姿を現すその瞬間を心待ちにしながら作品を楽しめるようにはなりつつある。
 さて、このように見ていくと、冒頭で紹介したような「文芸誌の休刊が相次ぎ、発表の機会を失った物語がウェブにその場を得た」──といったような見立てにはどうにも無理があることがわかる。ウェブ小説は、「小説」とは名付けられているものの、実にウェブ的であり、しかも投稿サイトというプラットフォームの機能にその内容も大きく規定されていると考えられるからだ(裏を返せば純粋な創作の自由度という意味ではウェブ小説を選択しない方がその幅は拡がるといえるかも知れない)。

やっぱり「編集者」は必要
 ラノベ最有力レーベル「電撃文庫」で数多くのウェブ小説を再構成のうえ文庫化し、数多くヒット作を生みだしてきた三木一馬氏に行ったインタビューでも、「その才能は文芸というよりもPCゲームなどのデジタルコンテンツをもともと志向している全く別のところから出てきたものではないか」と指摘されている。既存の出版社がウェブ小説を無視・軽視していたというよりも、そもそも「商材」としても似て非なるもので、出版社の「商流」にはそのままでは乗らないものだったのだ。
 同様の事象は今、マンガでも起こっている。1000万ダウンロードを突破し注目を集めるcomicoでは、作品を投稿するクリエイターのことを「マンガ家」ではなく「comico作家」と呼んでいる。掲載作品をそのまま出版することはなく、いったん従来の編集のフローに乗せて再構成し刊行するというのも、ウェブ小説からラノベへのパッケージの転換に通じるものがある。
 「ウェブコンテンツ」のままでは、キャズムを超えマス(一般層)に訴求できない、というのも「電車男」の頃から状況は変わってない。アニメ化されるような人気ウェブ小説も、そのほとんどはまずラノベレーベルによる出版を経ている点には注意が必要だ。「編集者が不要になった」といった、筆者を含めたメディア人がやりがちな短絡的な評価も、この2ステップを踏んでのマスへの訴求というプロセスを冷静に眺めれば誤りであることがわかる。作品が広く世に出る2段階目で編集者のスキルが存分に発揮されていることが見えてくるからだ。

求められるプロデューサー的スキル
 ただ本稿を読んで頂いている作家(クリエイター)の方々にとっては、いずれにせよ最初の段階──作品を投稿し、できるだけ多くの人に読んでもらい、フィードバックを受けながらランキング上位を目指す段階──では、作品を書く以外の作業をこなしていかなければならない。編集者、言い換えるならば昨今指摘されるように彼らも身につけるべきプロデューサー的なスキルの一部も、使いこなさなければならなくなった、というのも事実だ。創作の技術を磨くと同時に、たとえばソーシャルメディアを通じた作品のPRを行い、まずは作品を知ってもらわなければ、階段の一段目を上がることもできないからだ。
 独立作家同盟で定期的にセミナーを開催し、創作に加えてこういったPRのノウハウも共有しているのはとてもユニークで、意味のあることだと考えている。ウェブを通じた作品の発表の機会と、コミュニティによって作品を錬成する機能はこれからますます進化していくことになるだろう。その新しい環境に適応した才能がここ独立作家同盟から生まれることにわたしは期待しているし、微力ながら協力していきたいと思う。つまりはいつか、「このアニメ、群雛に載っていたあの作品が原作だ。スゲー!」とテレビにかじりつく日が来ることをわたしは夢見ているのだ。

インディーズ作家の生きる道 (群雛文庫)

インディーズ作家の生きる道 (群雛文庫)

再入門も、これからの人も「Re:ゼロから始めるcomico生活」
http://peatix.com/event/179130

ブランドとマーケティングの狭間で――VAIOスマホは何を間違えたのか?

ほぼ半年ぶりの更新です。ジャーナリスト兼ブロガーへの道は遠く険しいものがあります。

さて、昨日すっかり炎上してしまいましたが、当日の記者会見、その後行われたニコ生でも(司会を務められた石野さんはすごく頑張っておられましたが)その本質は明らかになってなかったと思いましたので、簡単に。

記者会見の時、「ど真ん中を狙った」として示された図がこれでした。(週アスPLUSさんのページから引用)


出典:『VAIO Phone VA-10J』発表! 発売は3月20日 VAIOスマホ発表会 リアルタイム更新【更新終了】 - 週アスPLUS http://weekly.ascii.jp/elem/000/000/313/313973/

この構図そのものに異論は少ないはずですし、MVNO事業者としての日本通信がこのカテゴリに製品が、それも日本メーカーの製品が欲しかったことは非常に良く分かります。しかし、果たして新生VAIOとしてはどうであったか?

ここでこの図を切り出して、横向きにしてみましょう。

その上で、マーケティングの世界で頻繁に引き合いに出される例の有名なキャズム理論の図を見てください。(すみません、ちょっと及川さんのブログから孫引き)


出典:はてなFirefox濃度が高いという仮説 - Nothing ventured, nothing gained. http://takoratta.hatenablog.com/entry/20060619/1150676854

で、上の図と下の図を頭の中で重ねあわせてください。

いかがでしょう?日本通信さんが示した図はあくまでSIMフリー市場を示しているので、微妙にまた切り口が異なるのですが、彼らが考えるストライクゾーン=マジョリティを狙って放った球であることは良く分かります。

一方、VAIO社が「ジムからガンダムへ」と究極を目指して開発されたVAIO Zはまさに、イノベーター・アーリーアダプターを狙い撃ったものでした。私自身もいまこの記事をZで書いていますが、キータッチの反応も、各種操作の応答速度も、筐体の剛性も何もかも素晴らしいと思います。

Appleマーケティングでもよく指摘されるように、イノベーター・アーリーアダプター層が製品を熱心に支持して、あとに続くマジョリティ層に「布教」するからこそ、製品としてのヒットが生まれます。(もちろんマジョリティ層に対する「安心感」の演出は別途必要です=Apple CareやGenius Bar等)デジタル時代にあって、お店の前にあれだけ行列をさせるのも、その構図をよく理解しているからと言えるでしょう。

翻ってVAIOは、改めてこの層へのアピールの第一弾が(おそらく)成功したばかりです。そのことをもって、凡庸なスマホVAIOのロゴを冠したからといって、イノベーター・アーリーアダプター層が熱心に布教するはずもありません。むしろ私も含めて彼らはそっぽを向き、マジョリティ層も、「なんだか良い評判があまり聞こえてこないな」という反応しかしようがなくなります。VAIOと名乗った途端に、比較対象はいわゆる格安エントリー機ではなく、販売単価が高いことでも注目*1を集めるハイエンドなVAIO PCが比較対象になるのです。(この点には別の商機もあると思いますが、それは今は置いておきます)

このVAIOスマホ、1月にはこのような報道もありました。例の「箱だけ会見」のときですね。

参考:日本通信VAIOスマホのパッケージを初公開。2月の発売に向け準備は順調 - PC Watch http://pc.watch.impress.co.jp/docs/news/20150130_686152.html

これ良く読むと、「設計変更を余儀なくされ」という話のあとに、日本通信としての業績見通しが示されています。おそらくこのあたりがターニングポイントであったのでしょう。

このディール、日本通信としてはあまり失うものがありません。日本の著名メーカーの名を冠したミッドレンジのスマホは、確かに彼らにとってのストライクゾーンど真ん中であったでしょう。「日本メーカー、あのVAIO日本通信と協業した。製品単価も十分に確保している、だから他のメーカーも参加して欲しい」といった趣旨の発言がニコ生でもありました。

しかしVAIO社にとってはどうでしょうか?会見後の囲みでは「これからの取り組みにも注目して欲しい」と苦しい回答が続きましたが、率直にいって、自らのブランド価値を理解していたのか、それをどうすれば育んで行くことができるのか、スマホの分野において本気で考え取り組んでいたのか、大きな疑問が残ります。

ELUGAと変わらない端末を選択せざるを得ないなら、VAIOのブランドは冠せない、ODMになるのはやむを得ないにしても、ブランドの名にふさわしい価値を備えた端末の選定や設計に時間を掛けるべきだ――そう主張できる立場にあったのは、VAIO社の他ありません。あるいは、VAIOのブランドを冠さず、他のブランドを日本通信と協力して仕立て衣装としてまとわせる、といった別の選択肢もあったはずです。

独立して、いろいろと厳しい局面があるのは重々想像ができるのですが、それでもイノベーター・アーリーアダプター層とブランドとの信頼関係を大切にして欲しかった。がっかりされるうちが花です。次の一手で真価が問われると思います。

キャズム

キャズム

#2015/03/13 19:51 少し文章を直して自分のTweetを追加しました。

*1:VAIO Z、13型ノートで断トツの平均単価に 〜量販店での販売開始も、数量を追わない姿勢は変わらず - PC Watch http://pc.watch.impress.co.jp/docs/news/20150310_691995.html

「意識高い」とはどういう状態か?なぜバカにされるのか?という話。

エヴァQ、実は初見だったのですが、評判通り訳が分からなかったです。20代から謎に付き合わされている身としては、そろそろ決着を見せて欲しいところだけれど、そもそも謎に対する答えや落としどころの用意されていない物語なんだろうな、と約20年を掛けて確認しているところです。というか、社会人経験を積めば積むほど、「え!?なんで、そこでちゃんと説明してあげないの?」というツッコミどころの方が気になってしまい・・・・・・。でも、この話、頭から終わりまで「ほうれんそう」が出来ていたら、多分成立しないんだろうな、とも。

そんな感じで、Twitterを眺めていたところ、津田さんが話題のマトリクスにツッコミを入れておられたので、その件について少々。

はい。仰ること、とてもよく分かります。と、同時にいわゆる「意識高い系」に自分も含めて多くの人が「イラッ」としていることも事実。さて、落としどころはどこに?

このマトリクス(※現在削除されているようです→#2014/09/07 図を再掲されたので、こちらもリンクを追加しました)、基本的な考え方は間違っていないと思うのですが、縦軸に「実力」と置いているのが、改善の余地があると言えそうです。実力ってなんだろう?誰がそれを測るんだろうか?本人は「ある」と信じているからこその意識高い系であり、周囲は「ない」と感じるからこその批判であり、同意も込めたRTがこれだけ積み上がるのでしょう。

ちょうど今、このテーマを正面から扱った(と僕は思う)ドラマが人気です。

アオイホノオ DVD BOX(5枚組)

アオイホノオ DVD BOX(5枚組)

80年代を舞台に描かれるこの作品。主人公ホノオモユルくんは、物語序盤は「俺には実力がある」と信じて疑いません。その根拠が初期のあだち充作品などに価値を見出し、俺が評価している、という目利きの才能にある、というのも、どこか現代の「意識高い系」に通じるものがあります。(だからこそ、いまこの物語が取り上げられたのかも知れませんね)

ところが物語が進むにつれ、後にガイナックスを創業することになる同級生アンノヒデアキさんらの活躍にも刺激され、彼はマンガの持ち込みを決意します。作品の方向性に迷ったり、実際に作品を描く際に思いもよらない困難が立ちふさがったりと、七転八倒の末、作品が完成し・・・・・・。

ざっくりとした紹介となってしまいますが、このような流れで物語は進行します。物語のカタルシスの1つは、主人公が信じて疑わない「実力」が、実際に行動を起こすと、現実には全く通用しないものだと思い知らされること。そして、持ち込み〜プロマンガ家デビューへという「実績」を何とかつかみ取ろうとするその姿にあるのは間違いありません。

ということで、先ほどのマトリクス、縦軸を「実績」としてはどうかなと思いました。客観的な「実績」であれば少なくとも、主観的な「実力」よりも本人も周囲も測りやすい。実績がなければ相手にされないのは現実だし、逆もまた然り。そして、実績がなくても応援してくれる周囲の人々が、かけがえのない存在であることも物語では繰り返し描かれているようにも思えます。

原作のオカダトシオさんのセリフで思わず膝を打ちました。以下引用で締めくくります。

よく、『これは俺が先に考えてたんや!』って言うアホがおるけど・・・
一番みっともない言葉や。
自分が先に考えたのにやらんかったんや。
それをえばっとんねんからホンマのアホやで!
先に考えてんやったら
先にやらな!!



#2014/09/06 追記
起きてホッテントリ入りしてびっくりしました。
加野瀬さんのコメントから読んで頂いた方が多いのかも知れないですね。

まつもとさんの親切な解説。自分しか認識できない「実力」をどう実績に変えていくのか?というのは難しい

「自分しか認識できない「実力」をどう実績に変えていくのか?」というのは、この問題への本質的な問いかけです。

ちょっと宣伝ぽくなってしまうのですが、実は堀正岳さんとの新著でその問いへの答えを「3極モデル」という形で整理していたりします。

知的生産の技術とセンス ~知の巨人・梅棹忠夫に学ぶ情報活用術~ (マイナビ新書)

知的生産の技術とセンス ~知の巨人・梅棹忠夫に学ぶ情報活用術~ (マイナビ新書)

これについても、いずれ詳しく(もしかすると堀さんのブログなどで、となるかも知れませんが)紹介することができればと思っています。

Twitterでのコミュニケーションのこと、あるいはアイデンティティの拡散のこと。

思い出のマーニー、良かったです。

それに触発されたかも知れません。コミュニケーションについて個人的なメモも兼ねて。少々長文で以下マーニーとは(ほぼ)関係がありません。

今でこそ、インタビューや司会・講演のお仕事などもさせて頂くようになりましたが、大学生のころまでは人前で話すことが本当に苦手で、飲み会でも貝になっているクラスタでした。自分が話したことが、相手にどう受止められるのか、とても怖かったんだと思います。

それを変えるきっかけになったのが当時の先輩で、とにかく何か話せ、自分がフォローするからと言ってかなり強引に背中を押してくれたんですね。最初のころは、「僕つまり・・・思う・・・こういう風に」という具合に日本語としてもかなり危なげだったはずなのですが、その都度その先輩が「まつもと、面白い!」ってフォローしてくれて、だんだんと自信がついていったのを覚えています。

当時から文章を書くのは得意な方でした。でも、ブログどころかネットすら無かった当時は文章で自分を表現しても相手に伝えることはとても難しい時代だったと思います。「自分の文章を読んでください」とお願いするのも、まずはリアルな空間で会話を通じてフィジカルに行わざるを得ない、ということが多かったのではないかと。

その後ブログが登場し、いまやTwitterも存在するわけで、文章で自分を表現して相手にそれを伝えるということは格段にハードルが下がりました。たった140文字で自分を世界に表現できるなんて!

しかし、一方でふと違和感を覚えることも増えたのです。Twitterでのコミュニケーションって一体なんなんだろうかと。

TwitterFacebookのようなSNSではなくメディアだと、Twitter社自身も定義しています。しかし昨年夏に世間を騒がしたバイト先でのイタズラ投稿などを追いかけると、身近な友だちとのやり取りに使っているケースが多いことに気づかされます。また、パソコン時代のフォーラムのように見知らぬ人とのコミュニケーションを楽しむ人もいます。

わたし自身もTwitterを使い始めた当初は、そんな使い方に面白さを感じていました。自分がフォローした人からメンションをもらったり、逆に自分をフォローしてくれている人からコメントをもらったりすると、「おお」と興奮することも多かったと記憶しています。(その経緯は、インプレスさんでの体当たり企画で記事としても纏まっています。フリーランスとして駆け出しだった自分にとって、Twitterはメディアである以上に、コミュニケーションのための道具であったということがよく分かります)

しかし、フォロワー数がある程度増えて、自分の活動領域も広がってくると、首を傾げたくなるようなコメントや、明らかな煽りや炎上狙いのメンションを受け取ることも増えていきました。例えばこれとか。当時、ここで絡んでいた人はTweetの合間に「バカ」など罵倒を含めていたのですが、Togetterにまとめる際にそのTweetは削除して「バカと言ってないのに、罵倒したと言いがかりをつけている」という具合に纏めていたりもします。「微妙なバランス」と言ったものを、タイトルでは「絶妙」と読み替えてあるなど、なるほどそうやって炎上を演出するんだなと妙に感心した記憶があります。

そんな出来事があってから、うん、やはりTwitterSNSじゃなくてメディアだなと腑に落ちたのでした。よく「匿名なのは卑怯だ」という批判があったりしますが、そういうことではなく、実名であろうが顕名であろうが、この空間でのコミュニケーションはリアル空間でのフィジカルな濃密さには及ぶべくもなく、あくまでも道具であり、そこになんらかの「目的」(ゴールや理想と言い換えても良いかも知れません)を求めても虚しいことになるな、ということです。

かつてのフォーラムは閉鎖された空間であったために、その場の暗黙のルールや管理者による交通整理が期待出来たわけですが、原則としてオープンな場であるTwitterは、そういった空気や文脈と切り離された形でコミュニケーションの一部が、場合によってはグロテスクに紹介されることもある。そして、それによって受けたダメージというのはなかなか直ぐには回復が難しいわけです。

そこまで大げさな事例でなくても、例えば「いま悩んでいる」というTweetに対して、フォロワーが「よしよし大丈夫だよ」と慰めてくれても、次の瞬間にはまったく別のトピックスに彼・彼女は楽しそうに反応していたりする。フィジカルな空間では窘(とが)められるような行為が、スマホでのアプリの切替え、テレビのザッピングのように普通に(本人には悪気無く)行われている空間でもあります。

あるいは「ブロック」がまた特徴的です。気に入らなければその人の投稿を即座に目に入らないようにすることができる。村上春樹の「風の歌を聴け」に「パチン・・・・・・OFFさ」という印象的なセリフがありますが、まさにそんな感じ。

そんな風に考えていた時に、ある人からこんな記事を教えてもらったのでした。
やる気がわいてくるたった1つの方法:ツイッターじゃ消せないむなしさ - 誠 Biz.ID

ここで紹介されている「アイデンティティの拡散」は、エリクソンの自我同一性拡散と言った方がその筋の人には分かりやすいかも知れません。

ちなみに記事では4つの兆候が紹介されていますが、専門的にはこちらの6つの分類がより詳しいです。
自我同一拡散

例えば、ここに挙げられている「対人的距離の失調=暫定的な形での遊技的な親密さや一時的可逆的なかかわりあいが、本人の対人的融合になってしまう」などは身近な人でも苦労されている例がしばしば見受けられます。

確かにTwitterでのコミュニケーションはアイデンティティがある程度確立されていないと、難しいものがあると感じます。自分自身のスタンスが定まらないままに押し寄せるメンションに応じ、何らかのきっかけでうっかり問題発言を行ってしまい、それがRTされたりした日には、まさに悪い意味での拡散となってしまいます。

いかにも米国発のサービスらしいとも言えそうですが、自由であり、オープンであるということは、応分の責任を負うだけの自我が求められるということかも知れません。(余談でありますが、従って鬱病など精神的に厳しい状況にある人はTwitterからはしばらく距離を置いた方が良く、周囲もそのつもりで対応した方が良いというのが持論です)

さて、この記事で目を引くのは、ここからニーチェを引き合いに「現代人は神話を奪われている」という主張を紹介している点です。神話=物語と自我の形成は密接な関係にあることはフロイトも指摘しているところですが、アイデンティティの拡散と神話の喪失という流れで「Twitterでは消せない虚しさ」を説明するというのは上手いと思いました。(本のタイトルのように「やる気がわいてくる」話かどうかはともかくとして)

やる気がいつの間にかわいてくるたった1つの方法

やる気がいつの間にかわいてくるたった1つの方法

僕は以前から、「ネット依存」という言葉には強い反感を持っています。病気と認められた訳では無いのに「ネット依存症」と「症」を付けるのはもってのほかであるというのはもちろんなのですが、「いつもTwitterやLINEをやっていてけしからん」という意味でその利用を制限する、その際にこの言葉が用いられるのはヘンです。端的に言えば雑な議論だと思っています。インターネットがこれだけ普及し、多様なサービスが存在する中、「ネット=悪」と十把一絡げにした議論をするのは不毛であるばかりか、有害とすら思います。

「お風呂中は使いません」宣言用紙をスマホ契約時に配布、都がネット依存対策 -INTERNET Watch

だから、Twitterへの「依存」が問題であるという主張はしないつもりでいます。そうではなく、先の記事で説明されていた神話、物語の喪失というのが問題の本質だと考えています。「こうありたい、こうあるべき自分」という自我を支える物語が現実空間で得にくいところに、仮想空間で社会を形成しているMMORPG(オンラインRPG)はある種の生きがいを提供し支持を拡げた側面は否定できないはずです。「ネット依存」という言葉を普及させた久里浜医療センターの樋口進院長自らも、ネットの進化によって他のサービスがその原因になり得るかも知れないと前置きした上で「現在までにセンターに寄せられた相談はオンラインゲームが圧倒的に多い」とコメント*1しています。個人的にはそうであれば「ネット依存」という言葉ではなく「オンラインゲーム依存」とした方が、少なくとも現状を表すには適切では無かったのではないかと感じてもいます。

おそらくこの問題は、その当事者がいま置かれている状態――つまり「物語」を喪失して生きづらい状況にあるのか、現実社会の延長線上にある場でのコミュニケーションツール(既にある物語を補完する)としてネットと向き合っているのか、はたまたスティグマを抱えたもの同士が互いを理解し、良くも悪くも慰め合う(新しい物語を紡ぎ出す)場となっているのか――といった場合ごとに事情や、注意すべき点などが異なってくるはずです。

そういった辺りを気に留めながら、ネットをコミュニケーションの「経路」として利用しながら、本質的には現実空間で向き合い、時にはぶつかり合うことで互いの、あるいは社会の物語を共有していく他ないのだろうなと、改めて思う次第です。マーニーにはネットは登場しませんが(スマホすら出てこなかった?)、バーチャルな空間での交流の背景にあるものが、やがて現実世界との関係で解き明かされていく終盤の展開は見事だと思いました。

#2014/08/08 14:50 自我同一性拡散についてのリンクと例を追記しました。

*1:記者の眼 - 子供のネット依存、治療に当たる久里浜医療センター院長が「生易しい問題ではない」と警告:ITpro http://itpro.nikkeibp.co.jp/article/Watcher/20130720/492762/