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まつもとあつしの日々徒然

はてなダイアリーからようやく移行しました

「ソーシャル」を巡る論点の整理

さて、ここ数日「ソーシャル」という言葉を巡る議論が、(一部で)熱くなっています。

きっかけはこの記事。

蔓延する誤った「ソーシャルメディア」の定義【水谷翔】 : TechWave

ここで大学4年生の水谷さんは、

ソーシャルとは「リアルな友人との関わり合い」のことを指します。

と断定して、はてなブックマークTogetterで多くの人による違和感が表明されました。

その急先鋒はやはり佐々木俊尚さんのこのコメントでしょう。

この記事は100%間違っている。そもそもバーチャルの人間関係とリアルの人間関係が融解しつつあるのであって、リアルに固執するのは変。

論点1:ソーシャルとはリアルなものだけを指すのかバーチャルなものも内包するのか?

まず一旦整理しなければならないのが、英語でのVirtualは、リアルの反対語では無いという点です。
ヴァーチャルリアリティの研究者は、Virtualに「仮想」という訳を当てるのを嫌う傾向があります。

Wikipediaの「ヴァーチャルリアリティ」の項目冒頭にもあるように、「実際の形はしていないか、形は異なるかも知れないが、機能としての本質は同じである」という意味で本来的には使われるべき言葉です。

SNSに置き換えると、「実際に顔見知りでは無いが、ネット上で繋がっていることが、実際に顔見知りであることと本質的には同じように機能する」、という風に理解できます。佐々木さんのいう「融解」とは、高機能になっていくSNSがあればこそですが、間違った指摘ではなさそうです。

一例を挙げると私は4千人を超える方にフォローされてますが、実際の顔見知りはもちろんもっと少ない数字です。けれども、Twitterの機能によって、例えばメール取材しかしたことが無い人ともリアルの顔見知りに近い感覚でコミュニケーションが取れます。逆に、毎日のようにTwitter上では激しい口論も起こりますが、実にリアルな社会を投射したヴァーチャルな空間であるとも言えるでしょう。

Twitterをソーシャルにカウントするべきでは無いという意見もあります。けれども、純粋にFacebookを例にとっても、「実際の友人」が「いいね!」ボタンで紹介しているコンテンツが、自分自身が顔見知りではない「友達の友達」によるものだったとします。それに対して自分も「いいね!」ボタンを押すことで、ここでいうヴァーチャルに一歩近づくことになるわけです。

つまり、SNSの機能や人々を惹き付ける魅力から考えても、ヴァーチャルなものも内包する、と捉えるのがごく自然であると言えるでしょう。

水谷さんの記事を掲載したTechwaveの湯川鶴章さんは、記事への「蛇足」として次のように述べています。

インターネットは「巨大な図書館」から「巨大な公民館」になる。巨大な公民館ではリアルな人間関係が核になっていく

個人的には、現実世界でそうであるように、図書館もあれば公民館もあるというのが自然な未来像であると考えますが、それよりも重要なのは、「巨大な公民館」で果たして「リアルな人間関係が核に」なり得るのか、という点です。

ウィキノミクス」で紹介されている事例などを振り返っても、ネット上で国境や現実世界での社会的関係を越えて、協働が生じています。それこそが「巨大な公民館」化するネットならでの大きな特徴であると理解した方が、湯川さんがおそらく理想と考えるゴールに近づくのではないでしょうか?

ウィキノミクス

ウィキノミクス

湯川さん自身も「蛇足」の中で「バーチャルな人間関係もリアルな人間関係も自分にとっては感覚的にはリアルなものに近づく」としていますが、結論では「リアルな人間関係が核となっていく」とまたいわば「リアル固執」と読めてしまう結びになってしまっているのが残念です。

まずはヴァーチャル=仮想という誤訳から離れて、言葉の定義から確認していくことが(枝葉末節ではなく)この議論では重要です。また、言葉を大切にするというのは、旧来メディアであれ、ソーシャルメディアであれ、著者と編集者にとっての変えては行けない矜持では無いかと考えます。

論点2:実名か匿名か

ところで、このリアルかバーチャルかという議論に、実名・匿名の話が混じるとややこしくなります。

水谷さんの、「SNSとは、『実際の友人・知人との関係をネット上に移したもの』」と断定しているのも、多分に「煽っている」表現にはなっていますが、以下のように整理すれば実は間違ってはいません。

自分のSNS上での友人を仮に、「リアルな友人」で固めたとしても、その先にいる「友達の友達」は顔見知りとは限りません。ただ、人間関係(ソーシャルグラフ)を俯瞰して見たときに、仮にその中に匿名や顕名のユーザー(ペンネームのように書き手が特定できる形で情報発信する人)が混じっていても、その後ろ側には実在の「人間」が居るわけです。それらを「ネット上の移したもの」という定義は、ごく自然なものです。ソーシャルグラフとはそういうものなはずです。

改めて確認しておくと「匿名=ヴァーチャル」という関係ではありません。SNSの様々な機能がヴァーチャルな人間関係の本質性を強化しつづけている、というのが正しい現状認識であると考えます。

ただ、そこに「実名で交流すべき」とか「(2ちゃんねるを念頭に置きながら)匿名だから日本のインターネットは残念」といった「有るべき論」が加わると、どうも議論にフィルターが掛かるようです。

【日本の議論】ネット上は匿名?実名? 勝間和代氏vsひろゆき氏の“議論”より (1/5ページ) - MSN産経ニュース

海外のFacebookユーザーが実名・顔出しでコミュニケーションが取れる理由はなぜでしょう?私は実名であることで生じうるトラブルに対して、本人と周辺が適切に反応できる経験値を社会的に積んでいるから、と考えています。従って実名コミュニケーションによるメリットも享受できている訳であって、SNSに登録するIDを日本でも皆が実名にすれば、自動的に「巨大な公民館」としてのネットが、理想型に近づく訳ではありません。

ITシステムとしてやるべき事は、実名あるいは顕名によるトラブルを予防・救済できる仕組み作りですし(実際mixiはそこにかなりの投資をしている点がこれまで広く支持されている理由であると捉えています)、もっと長い目で社会として見たときには、ICTリテラシー教育というところに立ち戻るしかないでしょう。

そして最後、

論点3:オープンかクローズドか

Facebookは排他的だ  - Market Hack(外国株ひろば Version 2.0) - ライブドアブログ

mixi副社長の原田明典さんが、「やっと日本でもこんな記事が・・・」とTweetされたのは、ちょっと驚いたのですが、競争相手に対するポジションを考えると、コメントをされたかったというところなのかなと推察しています。

冒頭こちらの記事では映画『ソーシャル・ネットワーク』の冒頭部分、ザッカーバーグの"Because it’s exclusive and fun."というセリフを取り上げて、彼自身がFacebookが「排他的だ」と言及しているじゃないか、と指摘します。

しかし、どうも変です。日本語的に考えても「排他的」だし「楽しい」ってなんだか意味が通らなくはありませんか?

WikionaryによるとExclusiveの形容詞の項には以下のようにあります。

  1. exclusive (comparative more exclusive, superlative most exclusive)
  2. (literally) Excluding items or members that do not meet certain conditions.
  3. (figuratively) Referring to a membership organisation, service or product: of high quality and/or reknown, for superior members only. A snobbish usage, suggesting that members who do not meet requirements, which may be financial, of celebrity, religion, skin colour etc., are excluded.
  4. Exclusive clubs tend to serve exclusive brands of food and drinks, in the same exorbitant price range, such as the 'finest' French châteaux
  5. exclusionary
  6. whole, undivided, entire
  7. The teacher's pet commands the teacher's exclusive attention

id:satohhide さんが、この記事にコメントしているように「この場合のexclusiveって「粋な」という意味だろうから字幕は間違っていない」、つまり上記の3番の意味に近いというのが正しい理解であるように思えます。仮に会員制であることを持って、「閉鎖的」と断じるのもやや強引と言えるでしょう。仮にそうなら当初招待制のみだったmixiの方がよほど「閉鎖的」です。

最初に例を挙げた水谷さんの記事同様、少々「煽りが過ぎた」というところかも知れません。

もちろん、(本来この記事ではこの例を引くべきだと思いますが)Gmailへのアドレスのインポートを許さないといった施策を持って「閉鎖的」という批判は成立すると思います。

GoogleがFacebookによるGmailデータの自動インポートをブロック、対立激化 | ネット | マイコミジャーナル

ただし、この問題は(Facebookの出自が学内交流を目的としていたから未だ現在もクローズドだという零点答案はともかく)プラットフォーム・リーダシップと大いに関わる論点です。mixiにしても、先日のオープン化の前は、アプリにしかソーシャルグラフの外部利用を認めていませんでしたし、その前は全くクローズドだったわけです。

クローズドの是非そのものよりも、ソーシャルプラットフォーム間の競争で、各社パラメータを随時調整しているというのが実情で、Facebookだけを批判してもまた似たような問題が別のプラットフォームで起こるはずです。投資顧問会社に勤める広瀬さんが、仮に何らかの理由でmixiを応援するという立場であればこの方法ではうまくいかないでしょう。

ASCII.jp:mixiはFacebookの日本侵攻を食い止められるか?|まつもとあつしの「メディア維新を行く」

という具合に3つの論点から見てきましたが、冒頭触れたように共通するのは「言葉の定義を大事にしましょうよ」ということかも知れません。湯川さんが「蛇足」で指摘しているような「議論の価値」を抽出するには、まずは発信者・受信者双方に言葉を大事にしないことには、残念ながら議論そのものが成立しないということを確認した一連の記事でもありました。これ、ソーシャルネットワークにおけるヴァーチャルな関係性を突き詰めるときにも現れる課題の一つとも言えそうです。