まつもとあつしの日々徒然

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魔法少女まどか☆マギカ―それは「ぼくたちの」決断と選択の物語

※以下第9話放送後に書いており多少ネタバレをふくみます。

さて、大変な話題を呼んでいるまどか☆マギカについて、雑感を。

問題となった3話をきっかけに、様々な考察・謎解きが行われていますが、個人的には鏡の国のアリスをモチーフにしている云々はあまり関心がありません。謎で主題をカモフラージュしている、エヴァンゲリオンでも使われた手法だと思ってます。

ただし、エヴァではその主題が結局、少なくともテレビ版では描ききられることはなかったのですが、まどか☆マギカについては、すでに表出していて、それが視聴者の琴線に触れ、どうにも気になって仕方が無い作品になり得ているのではないかと考えています。

それは、決断と選択について、です。

決断も行動もしない主人公

魔法少女」という伝統的なモチーフによって、それは表面的には少女たちの物語として描かれていますが、やはり、視聴者が自らを投影できる作りになっていると見るのが妥当です。あとで述べるように、男性キャラクターに自己投影が難しくなった以上、魔法少女をもってくるしかなかったのだと思われます。(喪男が魔法使いになる話だとあんまり視聴率稼げないわけで)

そして物語のなかで、主人公まどかは少なくとも9話までは変身を遂げていません。マミさん→ほむら→さやか→杏子、とその時々のパートナーの後ろに控えて、最悪の状況を前に狼狽えるばかり。見ていてイライラするという反応さえあります。

しかし、まどかこそ、多くの視聴者の姿そのものである、というのがこの物語が突きつけているテーマでは無いでしょうか。

劇場映画「機動警察パトレイバー2」にこんなセリフがありました。

戦争が平和を生むように、平和もまた戦争を生む。単に戦争でないというだけの消極的で空疎な平和は、いずれ実体としての戦争によって埋め合わされる。そう思ったことはないか
その成果だけはしっかりと受け取っておきながらモニターの向こうに戦争を押し込め、ここが戦線の単なる後方に過ぎないことを忘れる。いや、忘れた振りをし続ける。そんな欺瞞を続けていれば、いずれは大きな罰が下されると

機動警察パトレイバー2 the Movie [Blu-ray]

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1993年(森田童子の「ぼくたちの失敗」がヒットした年でもあります)にこの作品が上映されたころは、まだ日本は世界に経済大国として認められており、これから失われることになる20年を予想していた人はまだ少数派でした。しかし、漠然とした先行きへの不安が世間を覆っていたのも事実で、東京を舞台に架空のテロ・クーデターを描いたこの作品は、当時の不安感をアニメで表現しきったことで支持されたと考えています。

さて、そこから18年が経ち、東京を舞台にした争乱が、もはやカタルシスを持ち得ないほど不安が日常化する中で、アニメは現実との交点を失っていきました。主人公に男性を置かなくなるどころか、登場人物から排除されていったというのはよく指摘されるところです。課題を解決し成長する物語に自己投影の手段を失っていったというのが現状でしょう。

その姿は、まどか☆マギカにおいて、決断しない主人公に重なります。大きな課題の掲出、友・メンターの喪失からの自己革新、そして課題の解決、というのがいわゆるハリウッドメソッドと呼ばれるストーリーの定番ですが、徹底してその逆を行く。そこには語り手の意図があるとみるのが自然です。

インキュベータは邪悪な存在なのか?

その主人公に決断(=契約)を迫るのがQBことインキュベータです。ネット上では悪者として叩かれまくっていますが、果たして邪悪と呼ぶべき存在なのでしょうか。

第9話で、少女達に契約を迫る理由が「宇宙から失われつつあるエネルギーを補完するため」であることが明かされました。その犠牲について事前に十分に説明されなかったことが、ずるい、として批判を集めている訳ですが、仮にインキュベータ氏の語ることが本当であれば、宇宙そのものの存続と数名の犠牲を天秤にかける話となります。

先ほど戦争をモチーフにしたセリフを挙げましたが、例えば現実世界でも軍隊における勧誘で、死ぬというリスクが最初に語られることはまずありません。そして、その説明をせざるを得ないとき、国家のための「尊い犠牲」であることが強調されるのです。インキュベータ氏はその範疇を越えた行為を行っているようには到底思えないのです。

私たち視聴者がインキュベータ氏に得も言われぬ不快感を感じるのは、契約という決断を迫る存在だからであり、一方それを阻止しようと献身的なほむらの人気が高いのは、モラトリアムを守ってくれる存在として映っているからに他有りません。

どこでどのような決断と選択を行えばグッドエンドにたどり着けるのか?

この物語がループするであろうことは、かなり早い段階から指摘されていました。ほむらは、繰り返されるこの物語の中で様々な選択を行っては失敗=バッドエンドに行き着いてしまい、何度もそれをやり直していることは想像に難くありません。

私たちがいま見守っている物語のルートでは、ほむらは徹底的に「まどかにインキュベータとの契約をさせない」という方針のもと行動をとっていると考えられます。しかし、9話までを見る限り、結果的にバッドエンドに突き進んでしまっているようです。

決断と選択の物語として、まどか☆マギカを捉えた際、やはり重要なのは、まどかの母親の「間違えればいい」というセリフでしょう。本来であれば、主人公まどかよりも、理知的な選択を繰り返してグッドエンドにたどり着けないほむらにこそ聞かせたいセリフです。

このセリフを聞いたあと、まどかはさやかのソウルジェムを投げ捨てるという行動に出て、結果大変なことになるわけですが、杏子が事の本質に気づくきっかけになったという意味では評価されるべき(=よいフラグが立った)ということなのかも知れません。

さて、ゲームならば、これは悩むところです。どこで誰がどのような選択を取れば良かったのだろうか?

この選択を重層的に行う事でしかグッドエンドに迎えられないことを思い知らされたゲームがあります。2009年に発売されたアドベンチャーゲーム428 〜封鎖された渋谷で〜」です。複数の登場人物に、ゲーム上の異なる時間帯で正しい選択を取らせなければ、グッドエンディングやその先に隠された真のエンディングにはたどり着けない仕組みに非常に悩まされました。

Spike The Best 428 ~封鎖された渋谷で~

Spike The Best 428 ~封鎖された渋谷で~

428で真のエンディングを見るには、登場人物たちに徹底的に憎悪から距離をおく――つまりそれは登場人物を危険に晒す――選択を取らせる必要があります。果たして、まどか☆マギカではどのような選択を取ればよいのか?時間を操作できるほむら自身がループさせている物語であることが明かされた後は、「鏡の世界」といった道具立ての考察から、決断と選択について視聴者の関心が移っていくのは間違いありません。

避けては通れない「犠牲」

人知を越えた存在であるインキュベータの目的を遂げさせないためには、登場人物の誰かが犠牲を払うことは避けられそうにもありません。ほむらが通常兵器で攻撃してもインキュベータは消滅しなかったことからも、誰かが(おそらく最強・最凶とされるまどか自身が)それ以上に人知を越えた力で、彼を打ち負かすしかないからです。つまり、それは契約をして魔女への化身が運命づけられた魔法少女になることでしか叶えられません。

このエントリーではその考察には踏み込みませんが、それを考えさせること自体に語り手の意図があるように思えます。

物語で徹底的な破局を描くことは、現実にその危機があることを私たちに思い起こさせ、そうならないための知恵を授けたり、行動を促すものです。劇場版エヴァンゲリオンまごころを、君に」では、スクリーンに劇場に座る「わたしたち」を投影するという手法で「現実に帰れ」という強烈なメッセージを残した(このあたりの考察は小黒さんのこの記事にきちんとまとめられている)わけですが、果たしてまどか☆マギカはどのような宿題をわたしたちに残してくれるのでしょうか?残り3話から目が離せません。