まつもとあつしの日々徒然

はてなダイアリーからようやく移行しました

Twitterでのコミュニケーションのこと、あるいはアイデンティティの拡散のこと。

思い出のマーニー、良かったです。

それに触発されたかも知れません。コミュニケーションについて個人的なメモも兼ねて。少々長文で以下マーニーとは(ほぼ)関係がありません。

今でこそ、インタビューや司会・講演のお仕事などもさせて頂くようになりましたが、大学生のころまでは人前で話すことが本当に苦手で、飲み会でも貝になっているクラスタでした。自分が話したことが、相手にどう受止められるのか、とても怖かったんだと思います。

それを変えるきっかけになったのが当時の先輩で、とにかく何か話せ、自分がフォローするからと言ってかなり強引に背中を押してくれたんですね。最初のころは、「僕つまり・・・思う・・・こういう風に」という具合に日本語としてもかなり危なげだったはずなのですが、その都度その先輩が「まつもと、面白い!」ってフォローしてくれて、だんだんと自信がついていったのを覚えています。

当時から文章を書くのは得意な方でした。でも、ブログどころかネットすら無かった当時は文章で自分を表現しても相手に伝えることはとても難しい時代だったと思います。「自分の文章を読んでください」とお願いするのも、まずはリアルな空間で会話を通じてフィジカルに行わざるを得ない、ということが多かったのではないかと。

その後ブログが登場し、いまやTwitterも存在するわけで、文章で自分を表現して相手にそれを伝えるということは格段にハードルが下がりました。たった140文字で自分を世界に表現できるなんて!

しかし、一方でふと違和感を覚えることも増えたのです。Twitterでのコミュニケーションって一体なんなんだろうかと。

TwitterFacebookのようなSNSではなくメディアだと、Twitter社自身も定義しています。しかし昨年夏に世間を騒がしたバイト先でのイタズラ投稿などを追いかけると、身近な友だちとのやり取りに使っているケースが多いことに気づかされます。また、パソコン時代のフォーラムのように見知らぬ人とのコミュニケーションを楽しむ人もいます。

わたし自身もTwitterを使い始めた当初は、そんな使い方に面白さを感じていました。自分がフォローした人からメンションをもらったり、逆に自分をフォローしてくれている人からコメントをもらったりすると、「おお」と興奮することも多かったと記憶しています。(その経緯は、インプレスさんでの体当たり企画で記事としても纏まっています。フリーランスとして駆け出しだった自分にとって、Twitterはメディアである以上に、コミュニケーションのための道具であったということがよく分かります)

しかし、フォロワー数がある程度増えて、自分の活動領域も広がってくると、首を傾げたくなるようなコメントや、明らかな煽りや炎上狙いのメンションを受け取ることも増えていきました。例えばこれとか。当時、ここで絡んでいた人はTweetの合間に「バカ」など罵倒を含めていたのですが、Togetterにまとめる際にそのTweetは削除して「バカと言ってないのに、罵倒したと言いがかりをつけている」という具合に纏めていたりもします。「微妙なバランス」と言ったものを、タイトルでは「絶妙」と読み替えてあるなど、なるほどそうやって炎上を演出するんだなと妙に感心した記憶があります。

そんな出来事があってから、うん、やはりTwitterSNSじゃなくてメディアだなと腑に落ちたのでした。よく「匿名なのは卑怯だ」という批判があったりしますが、そういうことではなく、実名であろうが顕名であろうが、この空間でのコミュニケーションはリアル空間でのフィジカルな濃密さには及ぶべくもなく、あくまでも道具であり、そこになんらかの「目的」(ゴールや理想と言い換えても良いかも知れません)を求めても虚しいことになるな、ということです。

かつてのフォーラムは閉鎖された空間であったために、その場の暗黙のルールや管理者による交通整理が期待出来たわけですが、原則としてオープンな場であるTwitterは、そういった空気や文脈と切り離された形でコミュニケーションの一部が、場合によってはグロテスクに紹介されることもある。そして、それによって受けたダメージというのはなかなか直ぐには回復が難しいわけです。

そこまで大げさな事例でなくても、例えば「いま悩んでいる」というTweetに対して、フォロワーが「よしよし大丈夫だよ」と慰めてくれても、次の瞬間にはまったく別のトピックスに彼・彼女は楽しそうに反応していたりする。フィジカルな空間では窘(とが)められるような行為が、スマホでのアプリの切替え、テレビのザッピングのように普通に(本人には悪気無く)行われている空間でもあります。

あるいは「ブロック」がまた特徴的です。気に入らなければその人の投稿を即座に目に入らないようにすることができる。村上春樹の「風の歌を聴け」に「パチン・・・・・・OFFさ」という印象的なセリフがありますが、まさにそんな感じ。

そんな風に考えていた時に、ある人からこんな記事を教えてもらったのでした。
やる気がわいてくるたった1つの方法:ツイッターじゃ消せないむなしさ - 誠 Biz.ID

ここで紹介されている「アイデンティティの拡散」は、エリクソンの自我同一性拡散と言った方がその筋の人には分かりやすいかも知れません。

ちなみに記事では4つの兆候が紹介されていますが、専門的にはこちらの6つの分類がより詳しいです。
自我同一拡散

例えば、ここに挙げられている「対人的距離の失調=暫定的な形での遊技的な親密さや一時的可逆的なかかわりあいが、本人の対人的融合になってしまう」などは身近な人でも苦労されている例がしばしば見受けられます。

確かにTwitterでのコミュニケーションはアイデンティティがある程度確立されていないと、難しいものがあると感じます。自分自身のスタンスが定まらないままに押し寄せるメンションに応じ、何らかのきっかけでうっかり問題発言を行ってしまい、それがRTされたりした日には、まさに悪い意味での拡散となってしまいます。

いかにも米国発のサービスらしいとも言えそうですが、自由であり、オープンであるということは、応分の責任を負うだけの自我が求められるということかも知れません。(余談でありますが、従って鬱病など精神的に厳しい状況にある人はTwitterからはしばらく距離を置いた方が良く、周囲もそのつもりで対応した方が良いというのが持論です)

さて、この記事で目を引くのは、ここからニーチェを引き合いに「現代人は神話を奪われている」という主張を紹介している点です。神話=物語と自我の形成は密接な関係にあることはフロイトも指摘しているところですが、アイデンティティの拡散と神話の喪失という流れで「Twitterでは消せない虚しさ」を説明するというのは上手いと思いました。(本のタイトルのように「やる気がわいてくる」話かどうかはともかくとして)

やる気がいつの間にかわいてくるたった1つの方法

やる気がいつの間にかわいてくるたった1つの方法

僕は以前から、「ネット依存」という言葉には強い反感を持っています。病気と認められた訳では無いのに「ネット依存症」と「症」を付けるのはもってのほかであるというのはもちろんなのですが、「いつもTwitterやLINEをやっていてけしからん」という意味でその利用を制限する、その際にこの言葉が用いられるのはヘンです。端的に言えば雑な議論だと思っています。インターネットがこれだけ普及し、多様なサービスが存在する中、「ネット=悪」と十把一絡げにした議論をするのは不毛であるばかりか、有害とすら思います。

「お風呂中は使いません」宣言用紙をスマホ契約時に配布、都がネット依存対策 -INTERNET Watch

だから、Twitterへの「依存」が問題であるという主張はしないつもりでいます。そうではなく、先の記事で説明されていた神話、物語の喪失というのが問題の本質だと考えています。「こうありたい、こうあるべき自分」という自我を支える物語が現実空間で得にくいところに、仮想空間で社会を形成しているMMORPG(オンラインRPG)はある種の生きがいを提供し支持を拡げた側面は否定できないはずです。「ネット依存」という言葉を普及させた久里浜医療センターの樋口進院長自らも、ネットの進化によって他のサービスがその原因になり得るかも知れないと前置きした上で「現在までにセンターに寄せられた相談はオンラインゲームが圧倒的に多い」とコメント*1しています。個人的にはそうであれば「ネット依存」という言葉ではなく「オンラインゲーム依存」とした方が、少なくとも現状を表すには適切では無かったのではないかと感じてもいます。

おそらくこの問題は、その当事者がいま置かれている状態――つまり「物語」を喪失して生きづらい状況にあるのか、現実社会の延長線上にある場でのコミュニケーションツール(既にある物語を補完する)としてネットと向き合っているのか、はたまたスティグマを抱えたもの同士が互いを理解し、良くも悪くも慰め合う(新しい物語を紡ぎ出す)場となっているのか――といった場合ごとに事情や、注意すべき点などが異なってくるはずです。

そういった辺りを気に留めながら、ネットをコミュニケーションの「経路」として利用しながら、本質的には現実空間で向き合い、時にはぶつかり合うことで互いの、あるいは社会の物語を共有していく他ないのだろうなと、改めて思う次第です。マーニーにはネットは登場しませんが(スマホすら出てこなかった?)、バーチャルな空間での交流の背景にあるものが、やがて現実世界との関係で解き明かされていく終盤の展開は見事だと思いました。

#2014/08/08 14:50 自我同一性拡散についてのリンクと例を追記しました。

*1:記者の眼 - 子供のネット依存、治療に当たる久里浜医療センター院長が「生易しい問題ではない」と警告:ITpro http://itpro.nikkeibp.co.jp/article/Watcher/20130720/492762/