まつもとあつしの日々徒然

はてなダイアリーからようやく移行しました

ウェブコミュニティは「共創」と「競争」で物語を紡ぐ

1年以上ぶりの更新です。ブロガーへの道は険しいというか、無理かも。1個前のエントリーは、VAIOスマホ日本通信版)の蹉跌を取り上げましたが、VAIOさんはその後、Windowsフォンとして尖った端末を出してます。注目しております。

さて、今週末ウェブ小説やマンガに関するセミナーを渋谷で開催します。comicoの中の人をお招きしての無料のものですので、お気軽にご参加ください。comicoの解説本も会場限定特別価格で販売します。

再入門も、これからの人も「Re:ゼロから始めるcomico生活」
http://peatix.com/event/179130

このイベントは、僕も理事を務めるNPO法人日本独立作家同盟の主催によるものです。そこが発行している「群雛」という機関誌に寄稿したコラムの転載OK頂きましたので、僕がどんな風にウェブ小説・マンガを見ているか、という視点を先に提示しておきたいと思います。

ウェブ小説は文芸誌の代替か?
 ウェブ小説は「出版不況」(この言葉も適切なのか議論はあるが)に対する「回答」のように語られることが多い。いわく、文芸誌の休刊が相次ぎ、作品発表の機会が失われた中、ウェブ小説が新たな作品発表の場となっており、既存の枠組みに安住していた出版社はこのムーブメントに乗れなかった、といったものだ。
 一見もっともらしい意見だ。既存の出版業界にいろいろ思うところがある向きには、「よくぞやってくれた」という風に見立てたくなるほど、ウェブ小説は魅力的で強力な輝きを放っている。
 だが、ウェブ小説の歴史を振り返りつつ、調査や取材を続けていると、どうもこういった主張は間違っているように思えてくる。少なくとも建設的ではないとわたしは確信している。では、わたしたちはどのようにウェブ小説をとらえ、作家すなわちクリエイターとして、もしくは編集者のようなビジネスプロデューサーとしてこれと向き合っていけば良いのだろうか? 順を追ってみていこう。

ウェブ小説原作アニメに共通する世界観
 深夜アニメのラインナップを見ていると、ここ数年ウェブ小説──「小説家になろう」などの投稿サイト出自の物語が原作となった作品がほんとうに目に付くようになった。その多くがいわゆる「異世界ファンタジー」や「学園異能力バトル」ものだ。
 ある日突然ファンタジー世界に飛ばされた主人公が、現代の知識や技術を用いながら現地の人々と様々な困難を解決していく。あるいは能力者たちの集う学園に、逆位相の能力を持つ主人公が現れ、偏見のまなざしや彼らからの様々な挑戦を受けながら、試練を克服し仲間を得て自らの立ち位置を確立していく……。
 ただでさえ、1クール(3ヶ月)ごとに大量のアニメが放送される中で、一見ほとんど世界観が同じに思える作品が複数あったりする。「あれ? このヒロインは主人公の妹だったっけ? 恋人だったっけ? 先週はデレてたはずなのに、なんで今週は主人公の命を狙っているの?」と話が追えなくなってしまうのは、おそらく筆者だけではないはずだ。
 そこで描かれる異文化との交流、異なる社会構造との衝突と融和──なにゆえ民族学文化人類学的にど真ん中なアプローチの作品が、これほどまでに支持を拡げたのか? それは、これらの物語がインターネットコミュニティで生まれ、「共創」と「競争」の中から生まれたこととおそらく無関係ではないはずだ。

巨大掲示板から生まれた物語
 ウェブ小説を「ネット空間で発表される物語」と広義に捉えると、それ自体はインターネット登場以前から、電子掲示板などでもその萌芽を見てとれる。「小説家になろう」(以下「なろう」)が開設されたのは2004年。今から10年以上も前にさかのぼる。同じ年、2ちゃんねるに「電車男」が投稿され、その後書籍化・映像化に至ったことも、ウェブ小説の源流の1つと数えることもできるはずだ。
 恋愛とは縁遠いオタク男子が、勇気を振り絞って年上のお嬢さんとのデートに臨む。それを「毒男板」と呼ばれたスレッドのユーザーたちがサポートし、ハッピーエンドへと導いていく。振り返れば「電車男」は、2ちゃんねるでの投稿者とスレ住民たちのポジティブなコメントのやり取りが、感動的な物語を紡ぎ出した希有な例であったかも知れない。

電車男 DVD-BOX

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 当時から「これは虚構ではないのか」という指摘もあったが、当事者たちにとってはそれが真実か否かはさほど重要ではなかったはずだ。インターネットコミュニティでの投稿を通じて、自分たちが物語に介入し、えもいわれぬ没入感を味わうという新しいエンターテインメントの原型がそこにはあった。
 一方で、電子掲示板でのコミュニケーションには困難もつきまとう。無粋な煽りや無関係なコメントに対する、コミュニティによる自浄作業にも限界がある。「電車男」以降、2ちゃんねるでこのような「大ヒット」に至る物語は結局生まれていない。
 掲示板で面白い物語を紡ぎ出すには、取り上げる主題の面白さや新鮮さ・リアリティの高さという偶発性に、最後まで一定のクオリティを保って投稿を続けるという投稿者の誠実さ、そしてスレッドの住民の自助努力が組み合わされなければならない。あまりにもコストが高すぎた、ということなのだろう。

著者と読者の「共創」環境
 掲示板での物語の創作と消費に入れ替わるような形で支持を拡げていったのが「なろう」に代表される小説投稿サイトだ。そこでは、物語の流れを妨げるような読者による直接的な介入は行われないが、感想・レビューという形でフィードバックを行うことができる。作者は1エピソードごとにそれらのフィードバックを参照しながら、次のエピソードで読者の期待に応えたり、逆に裏切って驚きを与え、またそれに読者が反応を返していく──という電車男でも見られた一種の共犯関係を構築していくことになる。その仕組みはとてもシンプルだが、従来の小説創作にはなかった「共創」環境が生まれた、と見立てることもできるだろう。
 そこで繰り広げられる「共創」の作業は、文化人類学におけるフィールドワークにも通じるものがある。フィールドワークでは異なる文化圏を訪れた研究者が、現地の自然、人々の生活、ヒエラルキー、経済の在り方などありとあらゆることを記録していく。その記録を研究者同士で評価し合い、彼我との比較も通じてその民族、文化圏に対する理解を深めていく。異世界ファンタジーが異世界という世界観を提示し、そこを訪れた読者とのバーチャルな「対話」を通じて物語を紡いでいく作業は、まさにフィールドワークそのものだ。結果、異世界モノとウェブ小説はとても相性が良い、という状況がこれほどまでに蓄積されたのではないか、と筆者は考えている。

文明の生態史観 (中公文庫)

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物語に影響を与える「競争」環境
 さらにそこでは「競争」も繰り広げられる。言うまでもなくランキングの存在がそれだ。ランキングについては賛否両論あるだろう。異世界モノがこれほどまでに量産される背景には、投稿サイトで人気を獲得できるジャンルがそれだから、という指摘もある。先日はじまったKADOKAWAが運営する小説投稿サイト「カクヨム」では、こうなることを避けるため予め投稿ジャンルをわけ、それぞれにランキングを生成するという工夫を加えている(が、果たして前述のような「共創」との相性の良さがある中でジャンルの多様性が拡がるかは未知数だ)。
 いずれにせよ、読者によるダイレクトかつリアルタイムな選考が行われているのがウェブ小説の世界だ。この「競争」という側面は物語にも影響を与えていると考えるのはいきすぎだろうか? ジャンプでは読者アンケートによるランキングの善し悪しで掲載継続か否かが決まる。投稿サイトではランキング上位に入らないと、なかなか作品を読んでもらうことはできない。そんな緊張感の中で、異能力バトルものが多い、というのはどこか書き手の心象風景と重なる部分があるのではないか。
 結果、たしかに一見似ている作品が増える。しかし、エピソードを重ねると、作者が描きたかった主題と、読者との対話に応じて、物語は多様な姿を見せるようになる。最初はわたしも物語を追うことの難しさに苦労したが、最近ではどのあたりにそれぞれの差異が生じてくるのか、まさに作者の主題が姿を現すその瞬間を心待ちにしながら作品を楽しめるようにはなりつつある。
 さて、このように見ていくと、冒頭で紹介したような「文芸誌の休刊が相次ぎ、発表の機会を失った物語がウェブにその場を得た」──といったような見立てにはどうにも無理があることがわかる。ウェブ小説は、「小説」とは名付けられているものの、実にウェブ的であり、しかも投稿サイトというプラットフォームの機能にその内容も大きく規定されていると考えられるからだ(裏を返せば純粋な創作の自由度という意味ではウェブ小説を選択しない方がその幅は拡がるといえるかも知れない)。

やっぱり「編集者」は必要
 ラノベ最有力レーベル「電撃文庫」で数多くのウェブ小説を再構成のうえ文庫化し、数多くヒット作を生みだしてきた三木一馬氏に行ったインタビューでも、「その才能は文芸というよりもPCゲームなどのデジタルコンテンツをもともと志向している全く別のところから出てきたものではないか」と指摘されている。既存の出版社がウェブ小説を無視・軽視していたというよりも、そもそも「商材」としても似て非なるもので、出版社の「商流」にはそのままでは乗らないものだったのだ。
 同様の事象は今、マンガでも起こっている。1000万ダウンロードを突破し注目を集めるcomicoでは、作品を投稿するクリエイターのことを「マンガ家」ではなく「comico作家」と呼んでいる。掲載作品をそのまま出版することはなく、いったん従来の編集のフローに乗せて再構成し刊行するというのも、ウェブ小説からラノベへのパッケージの転換に通じるものがある。
 「ウェブコンテンツ」のままでは、キャズムを超えマス(一般層)に訴求できない、というのも「電車男」の頃から状況は変わってない。アニメ化されるような人気ウェブ小説も、そのほとんどはまずラノベレーベルによる出版を経ている点には注意が必要だ。「編集者が不要になった」といった、筆者を含めたメディア人がやりがちな短絡的な評価も、この2ステップを踏んでのマスへの訴求というプロセスを冷静に眺めれば誤りであることがわかる。作品が広く世に出る2段階目で編集者のスキルが存分に発揮されていることが見えてくるからだ。

求められるプロデューサー的スキル
 ただ本稿を読んで頂いている作家(クリエイター)の方々にとっては、いずれにせよ最初の段階──作品を投稿し、できるだけ多くの人に読んでもらい、フィードバックを受けながらランキング上位を目指す段階──では、作品を書く以外の作業をこなしていかなければならない。編集者、言い換えるならば昨今指摘されるように彼らも身につけるべきプロデューサー的なスキルの一部も、使いこなさなければならなくなった、というのも事実だ。創作の技術を磨くと同時に、たとえばソーシャルメディアを通じた作品のPRを行い、まずは作品を知ってもらわなければ、階段の一段目を上がることもできないからだ。
 独立作家同盟で定期的にセミナーを開催し、創作に加えてこういったPRのノウハウも共有しているのはとてもユニークで、意味のあることだと考えている。ウェブを通じた作品の発表の機会と、コミュニティによって作品を錬成する機能はこれからますます進化していくことになるだろう。その新しい環境に適応した才能がここ独立作家同盟から生まれることにわたしは期待しているし、微力ながら協力していきたいと思う。つまりはいつか、「このアニメ、群雛に載っていたあの作品が原作だ。スゲー!」とテレビにかじりつく日が来ることをわたしは夢見ているのだ。

インディーズ作家の生きる道 (群雛文庫)

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再入門も、これからの人も「Re:ゼロから始めるcomico生活」
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