「経済を回す」とは何か?
「自粛反対」に合理性はない
計画停電の中、都内の夜は暗く、静かです。
今日は銀座近辺を歩いたのですが、飲食店はほぼ開店休業状態。
「経済を回せ」のかけ声のもと、「自粛・不謹慎」に反対すべく外食の回数を増やす方も居るようですが、しかしマクロに見ると外食とその周辺産業で回せる経済には限りがあります。
震災とその後の計画停電による経済損失(現時点で約20兆円と試算されています)に比べると、仮に例年通りに消費が行われたとしても焼け石に水です。
そして何よりも、同じ国のなかで2万人以上が死亡・行方不明になっている中、飲み食いにいつも以上におカネを使うというのは、相当図太い(←皮肉です)神経の持ち主でないと難しいでしょう。
とはいえ「景気のため」の自粛反対というのは心情的には理解できる部分もあるのですが、供給側に立つとやむを得ない事情というのもあります。
例えば昨日話題になったのは東京湾花火大会の中止を巡る議論でした。「震災後だからこそ(景気浮揚・意識高揚のためにも)実施すべし」という意見がTwitter上で多く聞かれましたが、実際のところ中止の理由は今現在、救援活動にあたっている警察・消防・海上保安庁との調整がとても行えるものではない、というものでした。
つまり、震災の影響は確実に被災地以外にも拡がっていて、物理的に自粛せざるを得ない場合もある、というのがこの一件からも分かります。消費者の側ではなく、供給側、たとえばイベント興行主の立場で少し考えれば理解できるかと思います。
需給両方のマインドが冷え切っている中で、それぞれを鞭打つことにどれほどの効果があるのか、正直理解できずにいます。
いまは「買い占め反対」を徹底すべきタイミング
いま「反対キャンペーン」を張るのであれば、「買い占め反対」を徹底すべき局面です。例えば、今日のワールドビジネスサテライトでは、こんな映像が紹介されていました。(画像引用)
乳児を抱える人たちが、ペットボトル入りの水を求めて大変な苦労をするなか、中高年の人たちが自由な時間を使って、悠々と水を買い占めていく様に戦慄を覚えました。先日の帰宅難民の際、「混乱もなく粛々・整然と帰宅した。日本人は素晴らしい」と評する意見もありましたが、これを「静かな略奪」と呼ばずしてなんと呼びましょう。Amazonには、エネループや自家発電機を定価の数倍で販売をはじめた業者もいます。売る側の倫理や正義感も問われる局面です。
いま、仮にネガティブキャンペーンを行うとすれば、喫緊の課題はこういった行為に対する反対の声をあげることではないかと考えます。
では経済は何で回すのか?
こちらの記事(巨大地震の経済的影響をどう考えるか:日経ビジネスオンライン )に詳しく述べられていますが、阪神淡路大震災後の経済を振り返っても、短期的な景気の落ち込みは避けようもない、というのが現実的な見方であろうと思います。
そして、その負けを取り返すのは中長期のスパンで見たときの「復興」に掛かっています。
今回の震災でも道路や建築物などの物理的なインフラが破壊されました。また、以前から諸外国に比べ遅れが指摘されていたITインフラ(※単に通信網ではなく、災害時にも役立つような統合的なITサービス)が十分機能しているとは言えません。震災から10日以上経っても、前回同様「避難所と各自治体で必要な物資のマッチングが行われていない」ことにもそれは現れています。
これらのインフラの復旧と再整備は大きな事業となっていかなければなりません。先ほどの記事でも中長期的にはこの復興事業が景気を上向かせると予測しています。
もっと言えば、前の震災後の神戸周辺がそうであったように、産業構造の組み替えがそこでは行われるはずです。仮に今回の震災で外食産業や娯楽産業が縮小したとしても、一方で別の産業で需要が生まれますし、それがより早く、スムーズに、できればその後の成長も伴う形で進行されなければなりません。
これはどこかで見た光景です。小泉政権下の「構造改革」ととてもよく似ています。
痛みも伴うし、中途半端に終われば痛みだけで終わってしまう。政治においてどのような意思決定が行われようとしているか、いつも以上に注視が必要になっていくでしょう。
しかし、それこそが「経済を回す」ということではないかと考えています。
不謹慎と無配慮は違う
東北関東大震災、その後の計画停電という事態になっています。
Twitterを見ていると、人々の心の動きが現れているようにも思えます。
通信環境がまだ回復するべくもない被災地の方々はTwitterを活用どころでは無いはずで、タイムラインは被災地の外にいる私たちの声が中心です。
イベントの自粛・延期に対して、経済活動をこれまで通り続けることこそが復興につながるという反応も多く見られます。
わたしも同じ意見です。
しかし、現実問題として人や物の移動がままならずキャンセルになるということもあり得ます。
興行の場合は、お客が入らなければ赤字になってしまうという主催者側の判断もあるでしょう。
自粛することを、批判するというのは益のないことだと感じます。
また、Twitter上では「復興につながる経済活動を続けること」を意図するあまり、敢えてTwitter上に喰ったり飲んだりする様子を扇情的に投稿する方が居ます。意図自体はよく理解できるのですが、やはり被災地の現状を慮っていただければと思います。
阪神大震災の数日後、わたしはボランティアとして神戸に入りましたが、まだ食事が普通にできる状態では全くありませんでした。
道の亀裂から溢れる水道水を被災した方がコップでバケツなどに移していた様子が強く印象に残っています。
電車でほんの30分ほどしか掛からない大阪駅についたとき、普段通りの光景が広がっていて目眩を覚えたのをよく覚えています。
いまIT業界では被災地もしくはその周辺で役立つサービスを不眠不休で立ち上げる人たちがいます。
メディアの方々も、情報を整理し正確に伝えることに汗を流しています。
普段通りの生活を送る、ということと遊んでその様子を投稿するのは違うということを強調しておきたいと思い、この記事を書きました。
<さらに追記>
どうも「不謹慎」問題への反応を見ていると、「無配慮な投稿をする」→「それを批判される」→「さらに無配慮な投稿をする」という連鎖反応になっているようです。批判も煽りもいずれもエネルギーの使い方としてはホトホト無駄ですので、イラッときたらアンフォローするのが良いかなと思います。
ミュート機能(一時的に特定のアカウントの投稿を見えなくする)を推奨いただくこともありますが、静かな省エネ型の抗議としてはアンフォローも有効ではないかと考えています。
そして、こういう時こそBLOGの出番かも知れません。苛立ちを誰にぶつけるでもなく、BLOGに書き殴るだけでもずいぶんと平常心を取り戻せます。
このエントリーもその一環ですね。
#2011.03.15 20:32 タイトルを変更しました。
#2011.03.16 15:46 さらに追記しました。
魔法少女まどか☆マギカ―それは「ぼくたちの」決断と選択の物語
※以下第9話放送後に書いており多少ネタバレをふくみます。
さて、大変な話題を呼んでいるまどか☆マギカについて、雑感を。
問題となった3話をきっかけに、様々な考察・謎解きが行われていますが、個人的には鏡の国のアリスをモチーフにしている云々はあまり関心がありません。謎で主題をカモフラージュしている、エヴァンゲリオンでも使われた手法だと思ってます。
ただし、エヴァではその主題が結局、少なくともテレビ版では描ききられることはなかったのですが、まどか☆マギカについては、すでに表出していて、それが視聴者の琴線に触れ、どうにも気になって仕方が無い作品になり得ているのではないかと考えています。
それは、決断と選択について、です。
決断も行動もしない主人公
「魔法少女」という伝統的なモチーフによって、それは表面的には少女たちの物語として描かれていますが、やはり、視聴者が自らを投影できる作りになっていると見るのが妥当です。あとで述べるように、男性キャラクターに自己投影が難しくなった以上、魔法少女をもってくるしかなかったのだと思われます。(喪男が魔法使いになる話だとあんまり視聴率稼げないわけで)
そして物語のなかで、主人公まどかは少なくとも9話までは変身を遂げていません。マミさん→ほむら→さやか→杏子、とその時々のパートナーの後ろに控えて、最悪の状況を前に狼狽えるばかり。見ていてイライラするという反応さえあります。
しかし、まどかこそ、多くの視聴者の姿そのものである、というのがこの物語が突きつけているテーマでは無いでしょうか。
劇場映画「機動警察パトレイバー2」にこんなセリフがありました。
戦争が平和を生むように、平和もまた戦争を生む。単に戦争でないというだけの消極的で空疎な平和は、いずれ実体としての戦争によって埋め合わされる。そう思ったことはないか
その成果だけはしっかりと受け取っておきながらモニターの向こうに戦争を押し込め、ここが戦線の単なる後方に過ぎないことを忘れる。いや、忘れた振りをし続ける。そんな欺瞞を続けていれば、いずれは大きな罰が下されると
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1993年(森田童子の「ぼくたちの失敗」がヒットした年でもあります)にこの作品が上映されたころは、まだ日本は世界に経済大国として認められており、これから失われることになる20年を予想していた人はまだ少数派でした。しかし、漠然とした先行きへの不安が世間を覆っていたのも事実で、東京を舞台に架空のテロ・クーデターを描いたこの作品は、当時の不安感をアニメで表現しきったことで支持されたと考えています。
さて、そこから18年が経ち、東京を舞台にした争乱が、もはやカタルシスを持ち得ないほど不安が日常化する中で、アニメは現実との交点を失っていきました。主人公に男性を置かなくなるどころか、登場人物から排除されていったというのはよく指摘されるところです。課題を解決し成長する物語に自己投影の手段を失っていったというのが現状でしょう。
その姿は、まどか☆マギカにおいて、決断しない主人公に重なります。大きな課題の掲出、友・メンターの喪失からの自己革新、そして課題の解決、というのがいわゆるハリウッドメソッドと呼ばれるストーリーの定番ですが、徹底してその逆を行く。そこには語り手の意図があるとみるのが自然です。
インキュベータは邪悪な存在なのか?
その主人公に決断(=契約)を迫るのがQBことインキュベータです。ネット上では悪者として叩かれまくっていますが、果たして邪悪と呼ぶべき存在なのでしょうか。
第9話で、少女達に契約を迫る理由が「宇宙から失われつつあるエネルギーを補完するため」であることが明かされました。その犠牲について事前に十分に説明されなかったことが、ずるい、として批判を集めている訳ですが、仮にインキュベータ氏の語ることが本当であれば、宇宙そのものの存続と数名の犠牲を天秤にかける話となります。
先ほど戦争をモチーフにしたセリフを挙げましたが、例えば現実世界でも軍隊における勧誘で、死ぬというリスクが最初に語られることはまずありません。そして、その説明をせざるを得ないとき、国家のための「尊い犠牲」であることが強調されるのです。インキュベータ氏はその範疇を越えた行為を行っているようには到底思えないのです。
私たち視聴者がインキュベータ氏に得も言われぬ不快感を感じるのは、契約という決断を迫る存在だからであり、一方それを阻止しようと献身的なほむらの人気が高いのは、モラトリアムを守ってくれる存在として映っているからに他有りません。
どこでどのような決断と選択を行えばグッドエンドにたどり着けるのか?
この物語がループするであろうことは、かなり早い段階から指摘されていました。ほむらは、繰り返されるこの物語の中で様々な選択を行っては失敗=バッドエンドに行き着いてしまい、何度もそれをやり直していることは想像に難くありません。
私たちがいま見守っている物語のルートでは、ほむらは徹底的に「まどかにインキュベータとの契約をさせない」という方針のもと行動をとっていると考えられます。しかし、9話までを見る限り、結果的にバッドエンドに突き進んでしまっているようです。
決断と選択の物語として、まどか☆マギカを捉えた際、やはり重要なのは、まどかの母親の「間違えればいい」というセリフでしょう。本来であれば、主人公まどかよりも、理知的な選択を繰り返してグッドエンドにたどり着けないほむらにこそ聞かせたいセリフです。
このセリフを聞いたあと、まどかはさやかのソウルジェムを投げ捨てるという行動に出て、結果大変なことになるわけですが、杏子が事の本質に気づくきっかけになったという意味では評価されるべき(=よいフラグが立った)ということなのかも知れません。
さて、ゲームならば、これは悩むところです。どこで誰がどのような選択を取れば良かったのだろうか?
この選択を重層的に行う事でしかグッドエンドに迎えられないことを思い知らされたゲームがあります。2009年に発売されたアドベンチャーゲーム「428 〜封鎖された渋谷で〜」です。複数の登場人物に、ゲーム上の異なる時間帯で正しい選択を取らせなければ、グッドエンディングやその先に隠された真のエンディングにはたどり着けない仕組みに非常に悩まされました。
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428で真のエンディングを見るには、登場人物たちに徹底的に憎悪から距離をおく――つまりそれは登場人物を危険に晒す――選択を取らせる必要があります。果たして、まどか☆マギカではどのような選択を取ればよいのか?時間を操作できるほむら自身がループさせている物語であることが明かされた後は、「鏡の世界」といった道具立ての考察から、決断と選択について視聴者の関心が移っていくのは間違いありません。
避けては通れない「犠牲」
人知を越えた存在であるインキュベータの目的を遂げさせないためには、登場人物の誰かが犠牲を払うことは避けられそうにもありません。ほむらが通常兵器で攻撃してもインキュベータは消滅しなかったことからも、誰かが(おそらく最強・最凶とされるまどか自身が)それ以上に人知を越えた力で、彼を打ち負かすしかないからです。つまり、それは契約をして魔女への化身が運命づけられた魔法少女になることでしか叶えられません。
このエントリーではその考察には踏み込みませんが、それを考えさせること自体に語り手の意図があるように思えます。
物語で徹底的な破局を描くことは、現実にその危機があることを私たちに思い起こさせ、そうならないための知恵を授けたり、行動を促すものです。劇場版エヴァンゲリオン「まごころを、君に」では、スクリーンに劇場に座る「わたしたち」を投影するという手法で「現実に帰れ」という強烈なメッセージを残した(このあたりの考察は小黒さんのこの記事にきちんとまとめられている)わけですが、果たしてまどか☆マギカはどのような宿題をわたしたちに残してくれるのでしょうか?残り3話から目が離せません。
電子書籍ブームと動画ビジネスの黒字化
この記事は前回の続きです。
生き残るメディア 死ぬメディア 出版・映像ビジネスのゆくえ (アスキー新書)
- 作者: まつもとあつし
- 出版社/メーカー: アスキー・メディアワークス
- 発売日: 2010/12/09
- メディア: 新書
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本書は、「電子書籍の立ち上がり」「黒字化した動画サイト3強」「ソーシャルメディアとポータルサービス」の大きく3つのテーマを扱っています。
なぜ、こういう構成になったかと言えば、たまたま取材を続けていたらそうなったから――ではなく(汗)、この3つのテーマはやはり関連性が高いと考えたからです。
2010年のITシーンは、電子書籍が大きく取り上げられましたが、個人的にはむしろこれまでずっと赤字経営を続けてきた動画配信サービスが黒字化したことが、かなり重要であったと感じています。
たとえば、USEN配下ではずっと赤字であったGyAOは、Yahoo!のもとで黒字化を達成しています。番組というコンテンツを第三者から調達し、広告をつけたり、課金をして回収を図るのがその基本的なビジネスモデルです。しかし、動画コンテンツの配信には巨額のインフラ投資が必要で、なかなか黒字化を図れなかった。
本書の元となったインタビューでは、ドワンゴの小林社長、夏野取締役、GyAOの川邊社長、YouTubeの徳生シニアプロダクトマネージャーといったキーマンに、「なぜ赤字なのか、どうやったら黒字化するのか」をしつこいくらいに聞いて回りました。(正直くどかったと思います・すみませんでした)
アスキー新書からは佐々木俊尚さんの「ニコニコ動画が未来を作る」が、ドワンゴの創業期からニコニコ動画のスタートまでを丹念に追った書籍として発行されています。「生き残るメディア 死ぬメディア」に収録したインタビューはちょうど四半期決算後で、期待されていたニコニコ動画が結局赤字に終わったタイミングで行われたものです。しかし黒字化直前のかなり自信を深めていた様子が、小林社長の言葉の端々に現れていて、いま読み返すと興味深いです。
つまり各プレイヤーの証言には、どうすれば黒字化するかというヒントがちりばめられていて、それは同じく「儲からない」とも酷評されつつある電子書籍にも通じる話では無いかと考えています。
本書にインタビューを収録した角川のBOOK☆WALKERのような垂直統合モデル、そして、先日赤松健先生に取材をしたJコミのような絶版を無料で再配布するモデル。単に書籍を電子化して、AppStoreなどに預けて販売するのとは、ひと味違ったモデルが動き出しつつあります。
共通するのは、調達、あるいは供給するコンテンツの量や傾向というよりずっと以前に、プラットフォーム設計に工夫を凝らし、かつそこに投資を続けたプレイヤーが勝つということです。取材を通じてそこはずっと意識して話を聞くようにしていました。その問題意識はその後登場したシャープの「GALAPAGOS」は、プラットフォームとしてみたときに果たしてどうなのか、という考察につながっていきます。
YouTubeに対し、独自の立ち位置を保持するGyao、ニコニコ動画ですが、電子書籍の場合は果たしてどうなるのでしょうか?その趨勢はコンテンツ提供者である出版社にとっても大きな関心事と成っています。国産プラットフォーマーが黒字化した映像の分野に学ぶべき点は多いはずです。
と、この文章をまとめていたところ、たまたま、またマガジン航の仲俣さんから、ボイジャー萩野社長の本を頂きました。
- 作者: 萩野正昭
- 出版社/メーカー: 新潮社
- 発売日: 2010/11
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萩野さんは映画業界の出身ですが、その経歴が、多くのプレイヤーが退場していった電子書籍業界にあって、いまなお生き字引的な存在たらしめていることが、この本からも良く分かります。私の経験はもちろん萩野さんには及びませんが、アプローチが似ていることは、著者として密かに嬉しく思った次第です。もちろん、萩野さんへのインタビューも本書では大切なパートを占めています。
▼電子書籍の成立にはソーシャルサービスとの連携が不可欠
ところで「ソーシャル」という言葉の定義には議論の余地がありますが、YouTubeにしてもニコニコ動画にしてもソーシャル性の高いサービスであり、その特色を活かしてユーザー数と収益機会を拡大してきました。
それに対して、電子書籍はまだその段階にはなく、ようやく紙というアトムの状態を脱して、電子書籍というビットの形に変化しつつあるに過ぎません。クラウドとかソーシャルに至る道のりはまだまだ長い、というのが現実的な見方ではないかと思います。
そこで本書では最後の章でソーシャルWebサービスについて、ページを割いて考えることにしました。「本もソーシャル化する」という意見もありますが、少なくともいくつかのステップを踏まなければそこにはたどり着けませんし、その間どう事業を継続するのかという関係者にとっては切実な問題もあります。1つの鍵はポータルサービスや検索と行った従来のサービスの再活用にあるという考えに立ってまとめたつもりです。
(次回「Webコンテンツが本というパッケージになる意味」に続きます)
今度の新刊は実は分厚いです
新刊についてのお知らせ兼雑感を3回ほどに分けて投稿します。
12月10日(金)に本が出ます。
生き残るメディア 死ぬメディア 出版・映像ビジネスのゆくえ (アスキー新書)
- 作者: まつもとあつし
- 出版社/メーカー: アスキー・メディアワークス
- 発売日: 2010/12/09
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目次は以下のようになっています。
Ascii.jpビジネスで連載を続けている「メディア維新を行く」と、同デジタルで不定期に掲載している「動画ビジネスってどうなの?儲かるの?」、そしてマガジン航に寄稿した記事をピックアップし、また調査会社ニールセン・ネットレイティングスからデータの提供を受け、大幅に加筆したものです。情報も可能な限り新しくして用語の解説も付けました。
プロローグ――ネット帝国主義、その先にあるもの
第1章 電子化が出版業界を揺るがす
1 「出版」=コンテンツ・ベンチャーの理念に立ち返れ――「文化通信」編集長、星野渉氏に聞く
2 iPhone/iPad規制と、これからの電子書籍――ボイジャー萩野正昭氏に聞く
3 電子書籍三原則とフォーマットを整理する――書籍アプリはお茶濁しに過ぎない?
4 国際ブックフェアに見る、電子出版と印刷会社――グーグルエディションと大手印刷会社の動きを探る
5 AiR―見えてきた電子書籍の成功モデル――出版・取次を介さず、原稿料も発生させないその秘訣とは?
6 ガラパゴスの夜明けはやってくるのか――ジャープの電子出版ビジネス「ガラパゴス」
7 電子書籍への大転換は「ソーシャルな読書体験」から生まれる――端末の機能は本質ではない
8 垂直統合プラットフォームとしてのBOOK☆WALKER――本を起点にゲーム・グッズ・映像をつなぐ架け橋を目指す第2章 テレビからネットへ――界面を巡る動き
1 ドワンゴ小林社長が語る「ビジネスとしてのニコニコ動画」――有料会員100万人、そして黒字化。飛躍直前に語られた展望
2 「コンテンツID」で広告モデルを徹底するユーチューブ――プロ・アマチュア双方にメリットをもたらすその仕組みとは?
3 狙うはテレビとパソコンの「間」 GyaOの勝算を聞く――USENからヤフーへ。黒字化の秘策とは?
4 ドワンゴ夏野剛氏が語る「未来のテレビ」――変革期のプラットフォーム、日本に足りないのは何か?
5 コンテンツビジネスを読み解く3つの理論――バリューチェーン/ウィンドウウィングモデル/グッドウィルモデル第3章 メディアシフトを動かすもの
1 激震ネットメディア。その現状を俯瞰する――「すべてをコントロール下の置くオープン戦略」が主流に
2 ミクシィはフェイスブックの日本侵攻を食い止められるか?――オープン・プラットフォーム戦略が鍵を握る
付録 データで見るソーシャルメディアと動画サイト――各々の特徴とその推移・傾向が顕著にあとがき
▼とても…分厚いです…
結構詰め込みました。トータル約270ページと、新書としてはとても分厚いです。
どれくらいのボリューム感か、マガジン航の仲俣さんからいただいた「ブックビジネス2.0」と並べて写真を撮ってみたのが冒頭の写真です。ページ数はどちらが多いか一見して分かりますか?
本の厚みをクローズアップをするとこんな感じです。
実は今回の新書の方が30ページほど多いんです。
紙の種類でこんなに違うものかと驚かされました。
もちろん中身の有る無しとはまた別の話です(笑)
#ブックビジネス2.0、また書評も書きたいと思っているのですが、興味深いです。おすすめです!
- 作者: 岡本真,仲俣暁生,津田大介,橋本大也,長尾真,野口祐子,渡辺智暁,金正勲
- 出版社/メーカー: 実業之日本社
- 発売日: 2010/07/16
- メディア: 単行本
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私はよく分からないのですが、出版に詳しい方からすると、このページ数でこの価格はなかなか凄いことらしいです。この1年間取材や考察を続けてきて、それらを取捨選択してもこれだけのボリュームになるものかと、改めて2010年の動きの多さを実感しました・・・。
(次回「電子書籍ブームと動画ビジネスの黒字化」に続きます)
ソフトバンクモバイルSBCareさんからのメール回答
この記事は、Togetterの方でまとめた 「ソフトバンクTwitterサポートアカウントさんとのやりとり」 http://togetter.com/li/73920 について、ソフトバンクモバイルサポートアカウントさんから頂いた回答を転載したものです。
(以下原文ママ)
マツモト 様
ソフトバンクモバイルをご利用いただき誠にありがとうございます。
ソフトバンクモバイルSBCareです。この度はTwitter上でのやり取りを望まれているにも関わらず、Eメールでの対応とさせて頂いた事に対して、お詫び申し上げます。
今回のご質問を受け、マツモトさまに今後もソフトバンクモバイルを継続してご利用いただくために私どもで何かできることはないかと考えました。その結果、Eメールにて対応させて頂く事で、マツモト様のご利用状況にあった提案ができるのではと考えた次第です。
MySoftBankでログインいただき、ご本人様確認が取れたため、勝手ながらご利用状況を確認させていただきました。
結論から申し上げますと、マツモト様のご利用状況を踏まえますと、現在のプラン(パケットし放題フラット)が適切かと考えます。
以下、計算方法の説明となり長文となりますが、ご確認いただけると幸いです。
パケットし放題forスマートフォン、パケットし放題フラットともに、1パケットあたり0.08円の課金ですが、
上限額が以下のようになっております。
・パケットし放題forスマートフォン 5,700円(税込5,985円)/月
・パケットし放題フラット 4,200円(税込4,410円)/月また、過去3ヶ月分のパケット数を確認させていただいたところ、以下のようなご利用状況でした。
・2010/11利用分 2,232,977Pkt
・2010/10利用分 2,082,697Pkt
・2010/9利用分 2,161,578Pkt利用が少ない10月分(2082697Pkt)を参考に、両サービスで計算しても、パケット料金は上限に達しております。
・パケットし放題forスマートフォン
2,082,697Pkt×0.08円=166,615.76
上限金額の5,700円(税込5,985円)・パケットし放題フラット
2,082,697Pkt×0.08円=166,615.76
上限金額の4,200円(税込4,410円)iPhoneの仕様としてWebページを閲覧された際、PCサイトダイレクト(iPhoneからご覧いただくことができるPC専用のページ)になるため、現在のパケットし放題フラットの方がお安くサービスをご利用頂けます。
マツモトさまが望まれている、
・パケットし放題for スマートフォンへの機種変更を伴わない変更
・パケットし放題MAX for スマートフォンにiPhoneが対応機種になる
この点については現状対応しておらず、結果として希望に添えるサービスが提供できなくなってしまった点は深くお詫びを申し上げます。
9月にパケットが少ないのは何故なんだろう、という個人的な関心はさておき、もともとの質問(下記)のポイントから外れてしまっているのが気になります。
.@sbcare そうなりますと、先の「パケットし放題MAX for スマートフォン...の提供に伴い受付終了」との因果関係が分かりかねます。iPhoneが利用できないプランの導入が、なぜiPhoneのプラン変更に影響を与えるのでしょうか?
そもそも、Galaxy Tabの購入をきっかけに、iPhoneのパケット料金を見直そうというのが発端でした。
また、Galaxy Tabを購入したショップでは、「パケットし放題forスマートフォン」への変更を薦められた(結果的にそれは11/11に受付が終わっていたことを知ることになるわけですが)という経緯があります。
したがって、直近のパケット料金から「パケットし放題フラット」に維持することをお勧め頂いても、うーん・・・という感じです。
せっかく調べて頂いたわけなのですが。
「ソーシャル」を巡る論点の整理
さて、ここ数日「ソーシャル」という言葉を巡る議論が、(一部で)熱くなっています。
きっかけはこの記事。
蔓延する誤った「ソーシャルメディア」の定義【水谷翔】 : TechWave
ここで大学4年生の水谷さんは、
ソーシャルとは「リアルな友人との関わり合い」のことを指します。
と断定して、はてなブックマーク、Togetterで多くの人による違和感が表明されました。
その急先鋒はやはり佐々木俊尚さんのこのコメントでしょう。
この記事は100%間違っている。そもそもバーチャルの人間関係とリアルの人間関係が融解しつつあるのであって、リアルに固執するのは変。
論点1:ソーシャルとはリアルなものだけを指すのかバーチャルなものも内包するのか?
まず一旦整理しなければならないのが、英語でのVirtualは、リアルの反対語では無いという点です。
ヴァーチャルリアリティの研究者は、Virtualに「仮想」という訳を当てるのを嫌う傾向があります。
Wikipediaの「ヴァーチャルリアリティ」の項目冒頭にもあるように、「実際の形はしていないか、形は異なるかも知れないが、機能としての本質は同じである」という意味で本来的には使われるべき言葉です。
SNSに置き換えると、「実際に顔見知りでは無いが、ネット上で繋がっていることが、実際に顔見知りであることと本質的には同じように機能する」、という風に理解できます。佐々木さんのいう「融解」とは、高機能になっていくSNSがあればこそですが、間違った指摘ではなさそうです。
一例を挙げると私は4千人を超える方にフォローされてますが、実際の顔見知りはもちろんもっと少ない数字です。けれども、Twitterの機能によって、例えばメール取材しかしたことが無い人ともリアルの顔見知りに近い感覚でコミュニケーションが取れます。逆に、毎日のようにTwitter上では激しい口論も起こりますが、実にリアルな社会を投射したヴァーチャルな空間であるとも言えるでしょう。
Twitterをソーシャルにカウントするべきでは無いという意見もあります。けれども、純粋にFacebookを例にとっても、「実際の友人」が「いいね!」ボタンで紹介しているコンテンツが、自分自身が顔見知りではない「友達の友達」によるものだったとします。それに対して自分も「いいね!」ボタンを押すことで、ここでいうヴァーチャルに一歩近づくことになるわけです。
つまり、SNSの機能や人々を惹き付ける魅力から考えても、ヴァーチャルなものも内包する、と捉えるのがごく自然であると言えるでしょう。
水谷さんの記事を掲載したTechwaveの湯川鶴章さんは、記事への「蛇足」として次のように述べています。
インターネットは「巨大な図書館」から「巨大な公民館」になる。巨大な公民館ではリアルな人間関係が核になっていく
個人的には、現実世界でそうであるように、図書館もあれば公民館もあるというのが自然な未来像であると考えますが、それよりも重要なのは、「巨大な公民館」で果たして「リアルな人間関係が核に」なり得るのか、という点です。
「ウィキノミクス」で紹介されている事例などを振り返っても、ネット上で国境や現実世界での社会的関係を越えて、協働が生じています。それこそが「巨大な公民館」化するネットならでの大きな特徴であると理解した方が、湯川さんがおそらく理想と考えるゴールに近づくのではないでしょうか?
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湯川さん自身も「蛇足」の中で「バーチャルな人間関係もリアルな人間関係も自分にとっては感覚的にはリアルなものに近づく」としていますが、結論では「リアルな人間関係が核となっていく」とまたいわば「リアル固執」と読めてしまう結びになってしまっているのが残念です。
まずはヴァーチャル=仮想という誤訳から離れて、言葉の定義から確認していくことが(枝葉末節ではなく)この議論では重要です。また、言葉を大切にするというのは、旧来メディアであれ、ソーシャルメディアであれ、著者と編集者にとっての変えては行けない矜持では無いかと考えます。
論点2:実名か匿名か
ところで、このリアルかバーチャルかという議論に、実名・匿名の話が混じるとややこしくなります。
水谷さんの、「SNSとは、『実際の友人・知人との関係をネット上に移したもの』」と断定しているのも、多分に「煽っている」表現にはなっていますが、以下のように整理すれば実は間違ってはいません。
自分のSNS上での友人を仮に、「リアルな友人」で固めたとしても、その先にいる「友達の友達」は顔見知りとは限りません。ただ、人間関係(ソーシャルグラフ)を俯瞰して見たときに、仮にその中に匿名や顕名のユーザー(ペンネームのように書き手が特定できる形で情報発信する人)が混じっていても、その後ろ側には実在の「人間」が居るわけです。それらを「ネット上の移したもの」という定義は、ごく自然なものです。ソーシャルグラフとはそういうものなはずです。
改めて確認しておくと「匿名=ヴァーチャル」という関係ではありません。SNSの様々な機能がヴァーチャルな人間関係の本質性を強化しつづけている、というのが正しい現状認識であると考えます。
ただ、そこに「実名で交流すべき」とか「(2ちゃんねるを念頭に置きながら)匿名だから日本のインターネットは残念」といった「有るべき論」が加わると、どうも議論にフィルターが掛かるようです。
【日本の議論】ネット上は匿名?実名? 勝間和代氏vsひろゆき氏の“議論”より (1/5ページ) - MSN産経ニュース
海外のFacebookユーザーが実名・顔出しでコミュニケーションが取れる理由はなぜでしょう?私は実名であることで生じうるトラブルに対して、本人と周辺が適切に反応できる経験値を社会的に積んでいるから、と考えています。従って実名コミュニケーションによるメリットも享受できている訳であって、SNSに登録するIDを日本でも皆が実名にすれば、自動的に「巨大な公民館」としてのネットが、理想型に近づく訳ではありません。
ITシステムとしてやるべき事は、実名あるいは顕名によるトラブルを予防・救済できる仕組み作りですし(実際mixiはそこにかなりの投資をしている点がこれまで広く支持されている理由であると捉えています)、もっと長い目で社会として見たときには、ICTリテラシー教育というところに立ち戻るしかないでしょう。
そして最後、
論点3:オープンかクローズドか
Facebookは排他的だ - Market Hack(外国株ひろば Version 2.0) - ライブドアブログ
mixi副社長の原田明典さんが、「やっと日本でもこんな記事が・・・」とTweetされたのは、ちょっと驚いたのですが、競争相手に対するポジションを考えると、コメントをされたかったというところなのかなと推察しています。
冒頭こちらの記事では映画『ソーシャル・ネットワーク』の冒頭部分、ザッカーバーグの"Because it’s exclusive and fun."というセリフを取り上げて、彼自身がFacebookが「排他的だ」と言及しているじゃないか、と指摘します。
しかし、どうも変です。日本語的に考えても「排他的」だし「楽しい」ってなんだか意味が通らなくはありませんか?
WikionaryによるとExclusiveの形容詞の項には以下のようにあります。
- exclusive (comparative more exclusive, superlative most exclusive)
- (literally) Excluding items or members that do not meet certain conditions.
- (figuratively) Referring to a membership organisation, service or product: of high quality and/or reknown, for superior members only. A snobbish usage, suggesting that members who do not meet requirements, which may be financial, of celebrity, religion, skin colour etc., are excluded.
- Exclusive clubs tend to serve exclusive brands of food and drinks, in the same exorbitant price range, such as the 'finest' French châteaux
- exclusionary
- whole, undivided, entire
- The teacher's pet commands the teacher's exclusive attention
id:satohhide さんが、この記事にコメントしているように「この場合のexclusiveって「粋な」という意味だろうから字幕は間違っていない」、つまり上記の3番の意味に近いというのが正しい理解であるように思えます。仮に会員制であることを持って、「閉鎖的」と断じるのもやや強引と言えるでしょう。仮にそうなら当初招待制のみだったmixiの方がよほど「閉鎖的」です。
最初に例を挙げた水谷さんの記事同様、少々「煽りが過ぎた」というところかも知れません。
もちろん、(本来この記事ではこの例を引くべきだと思いますが)Gmailへのアドレスのインポートを許さないといった施策を持って「閉鎖的」という批判は成立すると思います。
GoogleがFacebookによるGmailデータの自動インポートをブロック、対立激化 | ネット | マイコミジャーナル
ただし、この問題は(Facebookの出自が学内交流を目的としていたから未だ現在もクローズドだという零点答案はともかく)プラットフォーム・リーダシップと大いに関わる論点です。mixiにしても、先日のオープン化の前は、アプリにしかソーシャルグラフの外部利用を認めていませんでしたし、その前は全くクローズドだったわけです。
クローズドの是非そのものよりも、ソーシャルプラットフォーム間の競争で、各社パラメータを随時調整しているというのが実情で、Facebookだけを批判してもまた似たような問題が別のプラットフォームで起こるはずです。投資顧問会社に勤める広瀬さんが、仮に何らかの理由でmixiを応援するという立場であればこの方法ではうまくいかないでしょう。
ASCII.jp:mixiはFacebookの日本侵攻を食い止められるか?|まつもとあつしの「メディア維新を行く」
という具合に3つの論点から見てきましたが、冒頭触れたように共通するのは「言葉の定義を大事にしましょうよ」ということかも知れません。湯川さんが「蛇足」で指摘しているような「議論の価値」を抽出するには、まずは発信者・受信者双方に言葉を大事にしないことには、残念ながら議論そのものが成立しないということを確認した一連の記事でもありました。これ、ソーシャルネットワークにおけるヴァーチャルな関係性を突き詰めるときにも現れる課題の一つとも言えそうです。