まつもとあつしの日々徒然

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「この世界の片隅に」と「火垂るの墓」のこと

(※多少ネタバレを含みます)

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 「この世界の片隅に」、もうご覧になりましたか?

恐れ多くもエンドクレジット(スペシャルサンクス)に名前を入れて頂いています。企画のホント初期の段階に立ち会ったのと、アプリ「舞台めぐり」でのいわゆる聖地巡礼をお手伝いしています。平仮名なので少々目立ちます、すみません……。

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しかし、コトリンゴさんの歌とともに文字が流れるころには、そんなことを忘れるくらい、いろんな感情が去来して座席で小さく震えていました。観た人が簡単に感動した、とか言えない凄みとでも言うべきものがこの作品にはあります。こうの史代先生の原作を読み込んでいたのに、物語の筋立ては分かっていたのに、それでもなお、頭をガーンと殴られたような鈍い感覚があります。正直気楽な映画ではない。でも、確実に誰かに見てもらいたくなる作品です。

上映後の劇場内の雰囲気、ちょっと懐かしくもありました。私と同じくらいの世代の方であれば、1988年の「となりのトトロ」と「火垂るの墓」同時上映のときのアレだといえば通じるでしょうか。「トトロ」でほっこりしたあとに、「火垂るの墓」で主人公の絶望を共有する。「忘れものを、届けにきました」が当時の映画のコピーでしたが、戦後をよく知るであろう世代の方々が、嗚咽をもらしていたのをよく覚えています。忘れたかったものを、生々しく目の前に差し出されたとき、人はたじろぎ、恐怖します。「忘れたかったのに、なんてものを思い出させてくれたんだ!」、と。あの時の嗚咽は、恐怖とないまぜになったどうにも収まりがつかない感情が、人間に働きかけたときのそれです。子供ながら、「トトロ」と「火垂るの墓」上映後インターバルの、客席のあまりの落差に驚き、映画というものはここまで人を希望へと誘い、絶望へと追い詰めることができるのかと、感嘆したものです。

そして今、「この世界の片隅に」が私を震えさせたのは、1つの作品、例えるならば1枚の絵で天にも登るような希望と、目を覆いたくなるような絶望を同時に提示しているから。それは一言で言ってしまえば人生そのものなのですが、「火垂るの墓」のそれが死によって終わる物語であるのに対して、「この世界の片隅に」のそれは、脈々と、すずさんたちのその後に続く私たちの今に地続きであるのです。バッドエンドではない、でもそれはある意味で、死んでお終い、よりもずっと重い。作中の描写のリアリティとも相まって、今を生きる私たちに、生々しい手触りを伴って劇場を去っても刻み込まれるーーそんな感覚に今も襲われています。(この「リアリティ」については、徳島マチ★アソビで片渕須直監督と真木太郎プロデューサーとのトークイベント司会をさせて頂いた際に、当日司会のお仕事を忘れるほど十二分に衝撃を受けていたはずでしたが、それでもやっぱり凄かった)

gigazine.net

戦後50年以上が過ぎ「戦争」の感触は遠いものになりました。先日編集協力を行った電子書籍のなかで田原総一朗さんは「戦争はダメだ、という絶対的な価値観は失われ、なぜ戦争がダメなのかを確認しなければならなくなった」という意味のコメントを寄せています。

amzn.asia

火垂るの墓」が前者の価値観のもとに絶望を描ききったのに対して、「この世界の片隅に」は後者を、静かに、けれども恐ろしいまでの説得力を持って訴えかけているようにも思えます。当たり前の日常と、大切なものが失われる不条理と、失われてわかるそのかけがえなさと、それでも生きていく人間の強さ(あるいはどうしようもなさ)を、ここまで描ききった片渕須直監督と関係者の皆様に改めて拍手を贈りたいと思います。

トトロは「火垂るの墓」をより幅広い層に知らしめるきっかけにもなりました。願わくば「この世界の片隅に」が長く、多くの人々に届きますように。僕ももう少し何かできないか考えてみます。