まつもとあつしの日々徒然

はてなダイアリーからようやく移行しました

魔法少女まどか☆マギカ―それは「ぼくたちの」決断と選択の物語

※以下第9話放送後に書いており多少ネタバレをふくみます。

さて、大変な話題を呼んでいるまどか☆マギカについて、雑感を。

問題となった3話をきっかけに、様々な考察・謎解きが行われていますが、個人的には鏡の国のアリスをモチーフにしている云々はあまり関心がありません。謎で主題をカモフラージュしている、エヴァンゲリオンでも使われた手法だと思ってます。

ただし、エヴァではその主題が結局、少なくともテレビ版では描ききられることはなかったのですが、まどか☆マギカについては、すでに表出していて、それが視聴者の琴線に触れ、どうにも気になって仕方が無い作品になり得ているのではないかと考えています。

それは、決断と選択について、です。

決断も行動もしない主人公

魔法少女」という伝統的なモチーフによって、それは表面的には少女たちの物語として描かれていますが、やはり、視聴者が自らを投影できる作りになっていると見るのが妥当です。あとで述べるように、男性キャラクターに自己投影が難しくなった以上、魔法少女をもってくるしかなかったのだと思われます。(喪男が魔法使いになる話だとあんまり視聴率稼げないわけで)

そして物語のなかで、主人公まどかは少なくとも9話までは変身を遂げていません。マミさん→ほむら→さやか→杏子、とその時々のパートナーの後ろに控えて、最悪の状況を前に狼狽えるばかり。見ていてイライラするという反応さえあります。

しかし、まどかこそ、多くの視聴者の姿そのものである、というのがこの物語が突きつけているテーマでは無いでしょうか。

劇場映画「機動警察パトレイバー2」にこんなセリフがありました。

戦争が平和を生むように、平和もまた戦争を生む。単に戦争でないというだけの消極的で空疎な平和は、いずれ実体としての戦争によって埋め合わされる。そう思ったことはないか
その成果だけはしっかりと受け取っておきながらモニターの向こうに戦争を押し込め、ここが戦線の単なる後方に過ぎないことを忘れる。いや、忘れた振りをし続ける。そんな欺瞞を続けていれば、いずれは大きな罰が下されると

機動警察パトレイバー2 the Movie [Blu-ray]

機動警察パトレイバー2 the Movie [Blu-ray]

1993年(森田童子の「ぼくたちの失敗」がヒットした年でもあります)にこの作品が上映されたころは、まだ日本は世界に経済大国として認められており、これから失われることになる20年を予想していた人はまだ少数派でした。しかし、漠然とした先行きへの不安が世間を覆っていたのも事実で、東京を舞台に架空のテロ・クーデターを描いたこの作品は、当時の不安感をアニメで表現しきったことで支持されたと考えています。

さて、そこから18年が経ち、東京を舞台にした争乱が、もはやカタルシスを持ち得ないほど不安が日常化する中で、アニメは現実との交点を失っていきました。主人公に男性を置かなくなるどころか、登場人物から排除されていったというのはよく指摘されるところです。課題を解決し成長する物語に自己投影の手段を失っていったというのが現状でしょう。

その姿は、まどか☆マギカにおいて、決断しない主人公に重なります。大きな課題の掲出、友・メンターの喪失からの自己革新、そして課題の解決、というのがいわゆるハリウッドメソッドと呼ばれるストーリーの定番ですが、徹底してその逆を行く。そこには語り手の意図があるとみるのが自然です。

インキュベータは邪悪な存在なのか?

その主人公に決断(=契約)を迫るのがQBことインキュベータです。ネット上では悪者として叩かれまくっていますが、果たして邪悪と呼ぶべき存在なのでしょうか。

第9話で、少女達に契約を迫る理由が「宇宙から失われつつあるエネルギーを補完するため」であることが明かされました。その犠牲について事前に十分に説明されなかったことが、ずるい、として批判を集めている訳ですが、仮にインキュベータ氏の語ることが本当であれば、宇宙そのものの存続と数名の犠牲を天秤にかける話となります。

先ほど戦争をモチーフにしたセリフを挙げましたが、例えば現実世界でも軍隊における勧誘で、死ぬというリスクが最初に語られることはまずありません。そして、その説明をせざるを得ないとき、国家のための「尊い犠牲」であることが強調されるのです。インキュベータ氏はその範疇を越えた行為を行っているようには到底思えないのです。

私たち視聴者がインキュベータ氏に得も言われぬ不快感を感じるのは、契約という決断を迫る存在だからであり、一方それを阻止しようと献身的なほむらの人気が高いのは、モラトリアムを守ってくれる存在として映っているからに他有りません。

どこでどのような決断と選択を行えばグッドエンドにたどり着けるのか?

この物語がループするであろうことは、かなり早い段階から指摘されていました。ほむらは、繰り返されるこの物語の中で様々な選択を行っては失敗=バッドエンドに行き着いてしまい、何度もそれをやり直していることは想像に難くありません。

私たちがいま見守っている物語のルートでは、ほむらは徹底的に「まどかにインキュベータとの契約をさせない」という方針のもと行動をとっていると考えられます。しかし、9話までを見る限り、結果的にバッドエンドに突き進んでしまっているようです。

決断と選択の物語として、まどか☆マギカを捉えた際、やはり重要なのは、まどかの母親の「間違えればいい」というセリフでしょう。本来であれば、主人公まどかよりも、理知的な選択を繰り返してグッドエンドにたどり着けないほむらにこそ聞かせたいセリフです。

このセリフを聞いたあと、まどかはさやかのソウルジェムを投げ捨てるという行動に出て、結果大変なことになるわけですが、杏子が事の本質に気づくきっかけになったという意味では評価されるべき(=よいフラグが立った)ということなのかも知れません。

さて、ゲームならば、これは悩むところです。どこで誰がどのような選択を取れば良かったのだろうか?

この選択を重層的に行う事でしかグッドエンドに迎えられないことを思い知らされたゲームがあります。2009年に発売されたアドベンチャーゲーム428 〜封鎖された渋谷で〜」です。複数の登場人物に、ゲーム上の異なる時間帯で正しい選択を取らせなければ、グッドエンディングやその先に隠された真のエンディングにはたどり着けない仕組みに非常に悩まされました。

Spike The Best 428 ~封鎖された渋谷で~

Spike The Best 428 ~封鎖された渋谷で~

428で真のエンディングを見るには、登場人物たちに徹底的に憎悪から距離をおく――つまりそれは登場人物を危険に晒す――選択を取らせる必要があります。果たして、まどか☆マギカではどのような選択を取ればよいのか?時間を操作できるほむら自身がループさせている物語であることが明かされた後は、「鏡の世界」といった道具立ての考察から、決断と選択について視聴者の関心が移っていくのは間違いありません。

避けては通れない「犠牲」

人知を越えた存在であるインキュベータの目的を遂げさせないためには、登場人物の誰かが犠牲を払うことは避けられそうにもありません。ほむらが通常兵器で攻撃してもインキュベータは消滅しなかったことからも、誰かが(おそらく最強・最凶とされるまどか自身が)それ以上に人知を越えた力で、彼を打ち負かすしかないからです。つまり、それは契約をして魔女への化身が運命づけられた魔法少女になることでしか叶えられません。

このエントリーではその考察には踏み込みませんが、それを考えさせること自体に語り手の意図があるように思えます。

物語で徹底的な破局を描くことは、現実にその危機があることを私たちに思い起こさせ、そうならないための知恵を授けたり、行動を促すものです。劇場版エヴァンゲリオンまごころを、君に」では、スクリーンに劇場に座る「わたしたち」を投影するという手法で「現実に帰れ」という強烈なメッセージを残した(このあたりの考察は小黒さんのこの記事にきちんとまとめられている)わけですが、果たしてまどか☆マギカはどのような宿題をわたしたちに残してくれるのでしょうか?残り3話から目が離せません。

電子書籍ブームと動画ビジネスの黒字化

この記事は前回の続きです。

本書は、「電子書籍の立ち上がり」「黒字化した動画サイト3強」「ソーシャルメディアとポータルサービス」の大きく3つのテーマを扱っています。

なぜ、こういう構成になったかと言えば、たまたま取材を続けていたらそうなったから――ではなく(汗)、この3つのテーマはやはり関連性が高いと考えたからです。

2010年のITシーンは、電子書籍が大きく取り上げられましたが、個人的にはむしろこれまでずっと赤字経営を続けてきた動画配信サービスが黒字化したことが、かなり重要であったと感じています。

たとえば、USEN配下ではずっと赤字であったGyAOは、Yahoo!のもとで黒字化を達成しています。番組というコンテンツを第三者から調達し、広告をつけたり、課金をして回収を図るのがその基本的なビジネスモデルです。しかし、動画コンテンツの配信には巨額のインフラ投資が必要で、なかなか黒字化を図れなかった。

本書の元となったインタビューでは、ドワンゴの小林社長、夏野取締役、GyAOの川邊社長、YouTubeの徳生シニアプロダクトマネージャーといったキーマンに、「なぜ赤字なのか、どうやったら黒字化するのか」をしつこいくらいに聞いて回りました。(正直くどかったと思います・すみませんでした)

アスキー新書からは佐々木俊尚さんの「ニコニコ動画が未来を作る」が、ドワンゴの創業期からニコニコ動画のスタートまでを丹念に追った書籍として発行されています。「生き残るメディア 死ぬメディア」に収録したインタビューはちょうど四半期決算後で、期待されていたニコニコ動画が結局赤字に終わったタイミングで行われたものです。しかし黒字化直前のかなり自信を深めていた様子が、小林社長の言葉の端々に現れていて、いま読み返すと興味深いです。

つまり各プレイヤーの証言には、どうすれば黒字化するかというヒントがちりばめられていて、それは同じく「儲からない」とも酷評されつつある電子書籍にも通じる話では無いかと考えています。

本書にインタビューを収録した角川のBOOK☆WALKERのような垂直統合モデル、そして、先日赤松健先生に取材をしたJコミのような絶版を無料で再配布するモデル。単に書籍を電子化して、AppStoreなどに預けて販売するのとは、ひと味違ったモデルが動き出しつつあります。

共通するのは、調達、あるいは供給するコンテンツの量や傾向というよりずっと以前に、プラットフォーム設計に工夫を凝らし、かつそこに投資を続けたプレイヤーが勝つということです。取材を通じてそこはずっと意識して話を聞くようにしていました。その問題意識はその後登場したシャープの「GALAPAGOS」は、プラットフォームとしてみたときに果たしてどうなのか、という考察につながっていきます。

YouTubeに対し、独自の立ち位置を保持するGyaoニコニコ動画ですが、電子書籍の場合は果たしてどうなるのでしょうか?その趨勢はコンテンツ提供者である出版社にとっても大きな関心事と成っています。国産プラットフォーマーが黒字化した映像の分野に学ぶべき点は多いはずです。

と、この文章をまとめていたところ、たまたま、またマガジン航の仲俣さんから、ボイジャー萩野社長の本を頂きました。

電子書籍奮戦記

電子書籍奮戦記

萩野さんは映画業界の出身ですが、その経歴が、多くのプレイヤーが退場していった電子書籍業界にあって、いまなお生き字引的な存在たらしめていることが、この本からも良く分かります。私の経験はもちろん萩野さんには及びませんが、アプローチが似ていることは、著者として密かに嬉しく思った次第です。もちろん、萩野さんへのインタビューも本書では大切なパートを占めています。

電子書籍の成立にはソーシャルサービスとの連携が不可欠

ところで「ソーシャル」という言葉の定義には議論の余地がありますが、YouTubeにしてもニコニコ動画にしてもソーシャル性の高いサービスであり、その特色を活かしてユーザー数と収益機会を拡大してきました。

それに対して、電子書籍はまだその段階にはなく、ようやく紙というアトムの状態を脱して、電子書籍というビットの形に変化しつつあるに過ぎません。クラウドとかソーシャルに至る道のりはまだまだ長い、というのが現実的な見方ではないかと思います。

そこで本書では最後の章でソーシャルWebサービスについて、ページを割いて考えることにしました。「本もソーシャル化する」という意見もありますが、少なくともいくつかのステップを踏まなければそこにはたどり着けませんし、その間どう事業を継続するのかという関係者にとっては切実な問題もあります。1つの鍵はポータルサービスや検索と行った従来のサービスの再活用にあるという考えに立ってまとめたつもりです。

(次回「Webコンテンツが本というパッケージになる意味」に続きます)

今度の新刊は実は分厚いです

新刊についてのお知らせ兼雑感を3回ほどに分けて投稿します。

12月10日(金)に本が出ます。

目次は以下のようになっています。

Ascii.jpビジネスで連載を続けている「メディア維新を行く」と、同デジタルで不定期に掲載している「動画ビジネスってどうなの?儲かるの?」、そしてマガジン航に寄稿した記事をピックアップし、また調査会社ニールセン・ネットレイティングスからデータの提供を受け、大幅に加筆したものです。情報も可能な限り新しくして用語の解説も付けました。

プロローグ――ネット帝国主義、その先にあるもの

第1章 電子化が出版業界を揺るがす
1 「出版」=コンテンツ・ベンチャーの理念に立ち返れ――「文化通信」編集長、星野渉氏に聞く
2 iPhone/iPad規制と、これからの電子書籍――ボイジャー萩野正昭氏に聞く
3 電子書籍三原則とフォーマットを整理する――書籍アプリはお茶濁しに過ぎない?
4 国際ブックフェアに見る、電子出版と印刷会社――グーグルエディションと大手印刷会社の動きを探る
5 AiR―見えてきた電子書籍の成功モデル――出版・取次を介さず、原稿料も発生させないその秘訣とは?
6 ガラパゴスの夜明けはやってくるのか――ジャープの電子出版ビジネス「ガラパゴス
7 電子書籍への大転換は「ソーシャルな読書体験」から生まれる――端末の機能は本質ではない
8 垂直統合プラットフォームとしてのBOOK☆WALKER――本を起点にゲーム・グッズ・映像をつなぐ架け橋を目指す

第2章 テレビからネットへ――界面を巡る動き
1 ドワンゴ小林社長が語る「ビジネスとしてのニコニコ動画」――有料会員100万人、そして黒字化。飛躍直前に語られた展望
2 「コンテンツID」で広告モデルを徹底するユーチューブ――プロ・アマチュア双方にメリットをもたらすその仕組みとは?
3 狙うはテレビとパソコンの「間」 GyaOの勝算を聞く――USENからヤフーへ。黒字化の秘策とは?
4 ドワンゴ夏野剛氏が語る「未来のテレビ」――変革期のプラットフォーム、日本に足りないのは何か?
5 コンテンツビジネスを読み解く3つの理論――バリューチェーン/ウィンドウウィングモデル/グッドウィルモデル

第3章 メディアシフトを動かすもの
1 激震ネットメディア。その現状を俯瞰する――「すべてをコントロール下の置くオープン戦略」が主流に
2 ミクシィフェイスブックの日本侵攻を食い止められるか?――オープン・プラットフォーム戦略が鍵を握る
付録 データで見るソーシャルメディアと動画サイト――各々の特徴とその推移・傾向が顕著に

あとがき

▼とても…分厚いです…

結構詰め込みました。トータル約270ページと、新書としてはとても分厚いです。
どれくらいのボリューム感か、マガジン航の仲俣さんからいただいた「ブックビジネス2.0」と並べて写真を撮ってみたのが冒頭の写真です。ページ数はどちらが多いか一見して分かりますか?

本の厚みをクローズアップをするとこんな感じです。

実は今回の新書の方が30ページほど多いんです。

紙の種類でこんなに違うものかと驚かされました。

もちろん中身の有る無しとはまた別の話です(笑)
#ブックビジネス2.0、また書評も書きたいと思っているのですが、興味深いです。おすすめです!

ブックビジネス2.0 - ウェブ時代の新しい本の生態系

ブックビジネス2.0 - ウェブ時代の新しい本の生態系

私はよく分からないのですが、出版に詳しい方からすると、このページ数でこの価格はなかなか凄いことらしいです。この1年間取材や考察を続けてきて、それらを取捨選択してもこれだけのボリュームになるものかと、改めて2010年の動きの多さを実感しました・・・。

(次回「電子書籍ブームと動画ビジネスの黒字化」に続きます)

ソフトバンクモバイルSBCareさんからのメール回答

この記事は、Togetterの方でまとめた 「ソフトバンクTwitterサポートアカウントさんとのやりとり」 http://togetter.com/li/73920 について、ソフトバンクモバイルサポートアカウントさんから頂いた回答を転載したものです。

(以下原文ママ

マツモト 様

ソフトバンクモバイルをご利用いただき誠にありがとうございます。
ソフトバンクモバイルSBCareです。

この度はTwitter上でのやり取りを望まれているにも関わらず、Eメールでの対応とさせて頂いた事に対して、お詫び申し上げます。

今回のご質問を受け、マツモトさまに今後もソフトバンクモバイルを継続してご利用いただくために私どもで何かできることはないかと考えました。その結果、Eメールにて対応させて頂く事で、マツモト様のご利用状況にあった提案ができるのではと考えた次第です。

MySoftBankでログインいただき、ご本人様確認が取れたため、勝手ながらご利用状況を確認させていただきました。

結論から申し上げますと、マツモト様のご利用状況を踏まえますと、現在のプラン(パケットし放題フラット)が適切かと考えます。

以下、計算方法の説明となり長文となりますが、ご確認いただけると幸いです。
パケットし放題forスマートフォン、パケットし放題フラットともに、1パケットあたり0.08円の課金ですが、
上限額が以下のようになっております。
・パケットし放題forスマートフォン 5,700円(税込5,985円)/月
・パケットし放題フラット 4,200円(税込4,410円)/月

また、過去3ヶ月分のパケット数を確認させていただいたところ、以下のようなご利用状況でした。
・2010/11利用分 2,232,977Pkt
・2010/10利用分 2,082,697Pkt
・2010/9利用分 2,161,578Pkt

利用が少ない10月分(2082697Pkt)を参考に、両サービスで計算しても、パケット料金は上限に達しております。

・パケットし放題forスマートフォン
2,082,697Pkt×0.08円=166,615.76
上限金額の5,700円(税込5,985円)

・パケットし放題フラット
2,082,697Pkt×0.08円=166,615.76
上限金額の4,200円(税込4,410円)

iPhoneの仕様としてWebページを閲覧された際、PCサイトダイレクト(iPhoneからご覧いただくことができるPC専用のページ)になるため、現在のパケットし放題フラットの方がお安くサービスをご利用頂けます。

マツモトさまが望まれている、
・パケットし放題for スマートフォンへの機種変更を伴わない変更
・パケットし放題MAX for スマートフォンiPhoneが対応機種になる
この点については現状対応しておらず、結果として希望に添えるサービスが提供できなくなってしまった点は深くお詫びを申し上げます。

9月にパケットが少ないのは何故なんだろう、という個人的な関心はさておき、もともとの質問(下記)のポイントから外れてしまっているのが気になります。

.@sbcare そうなりますと、先の「パケットし放題MAX for スマートフォン...の提供に伴い受付終了」との因果関係が分かりかねます。iPhoneが利用できないプランの導入が、なぜiPhoneのプラン変更に影響を与えるのでしょうか?

そもそも、Galaxy Tabの購入をきっかけに、iPhoneのパケット料金を見直そうというのが発端でした。
また、Galaxy Tabを購入したショップでは、「パケットし放題forスマートフォン」への変更を薦められた(結果的にそれは11/11に受付が終わっていたことを知ることになるわけですが)という経緯があります。

したがって、直近のパケット料金から「パケットし放題フラット」に維持することをお勧め頂いても、うーん・・・という感じです。
せっかく調べて頂いたわけなのですが。

「ソーシャル」を巡る論点の整理

さて、ここ数日「ソーシャル」という言葉を巡る議論が、(一部で)熱くなっています。

きっかけはこの記事。

蔓延する誤った「ソーシャルメディア」の定義【水谷翔】 : TechWave

ここで大学4年生の水谷さんは、

ソーシャルとは「リアルな友人との関わり合い」のことを指します。

と断定して、はてなブックマークTogetterで多くの人による違和感が表明されました。

その急先鋒はやはり佐々木俊尚さんのこのコメントでしょう。

この記事は100%間違っている。そもそもバーチャルの人間関係とリアルの人間関係が融解しつつあるのであって、リアルに固執するのは変。

論点1:ソーシャルとはリアルなものだけを指すのかバーチャルなものも内包するのか?

まず一旦整理しなければならないのが、英語でのVirtualは、リアルの反対語では無いという点です。
ヴァーチャルリアリティの研究者は、Virtualに「仮想」という訳を当てるのを嫌う傾向があります。

Wikipediaの「ヴァーチャルリアリティ」の項目冒頭にもあるように、「実際の形はしていないか、形は異なるかも知れないが、機能としての本質は同じである」という意味で本来的には使われるべき言葉です。

SNSに置き換えると、「実際に顔見知りでは無いが、ネット上で繋がっていることが、実際に顔見知りであることと本質的には同じように機能する」、という風に理解できます。佐々木さんのいう「融解」とは、高機能になっていくSNSがあればこそですが、間違った指摘ではなさそうです。

一例を挙げると私は4千人を超える方にフォローされてますが、実際の顔見知りはもちろんもっと少ない数字です。けれども、Twitterの機能によって、例えばメール取材しかしたことが無い人ともリアルの顔見知りに近い感覚でコミュニケーションが取れます。逆に、毎日のようにTwitter上では激しい口論も起こりますが、実にリアルな社会を投射したヴァーチャルな空間であるとも言えるでしょう。

Twitterをソーシャルにカウントするべきでは無いという意見もあります。けれども、純粋にFacebookを例にとっても、「実際の友人」が「いいね!」ボタンで紹介しているコンテンツが、自分自身が顔見知りではない「友達の友達」によるものだったとします。それに対して自分も「いいね!」ボタンを押すことで、ここでいうヴァーチャルに一歩近づくことになるわけです。

つまり、SNSの機能や人々を惹き付ける魅力から考えても、ヴァーチャルなものも内包する、と捉えるのがごく自然であると言えるでしょう。

水谷さんの記事を掲載したTechwaveの湯川鶴章さんは、記事への「蛇足」として次のように述べています。

インターネットは「巨大な図書館」から「巨大な公民館」になる。巨大な公民館ではリアルな人間関係が核になっていく

個人的には、現実世界でそうであるように、図書館もあれば公民館もあるというのが自然な未来像であると考えますが、それよりも重要なのは、「巨大な公民館」で果たして「リアルな人間関係が核に」なり得るのか、という点です。

ウィキノミクス」で紹介されている事例などを振り返っても、ネット上で国境や現実世界での社会的関係を越えて、協働が生じています。それこそが「巨大な公民館」化するネットならでの大きな特徴であると理解した方が、湯川さんがおそらく理想と考えるゴールに近づくのではないでしょうか?

ウィキノミクス

ウィキノミクス

湯川さん自身も「蛇足」の中で「バーチャルな人間関係もリアルな人間関係も自分にとっては感覚的にはリアルなものに近づく」としていますが、結論では「リアルな人間関係が核となっていく」とまたいわば「リアル固執」と読めてしまう結びになってしまっているのが残念です。

まずはヴァーチャル=仮想という誤訳から離れて、言葉の定義から確認していくことが(枝葉末節ではなく)この議論では重要です。また、言葉を大切にするというのは、旧来メディアであれ、ソーシャルメディアであれ、著者と編集者にとっての変えては行けない矜持では無いかと考えます。

論点2:実名か匿名か

ところで、このリアルかバーチャルかという議論に、実名・匿名の話が混じるとややこしくなります。

水谷さんの、「SNSとは、『実際の友人・知人との関係をネット上に移したもの』」と断定しているのも、多分に「煽っている」表現にはなっていますが、以下のように整理すれば実は間違ってはいません。

自分のSNS上での友人を仮に、「リアルな友人」で固めたとしても、その先にいる「友達の友達」は顔見知りとは限りません。ただ、人間関係(ソーシャルグラフ)を俯瞰して見たときに、仮にその中に匿名や顕名のユーザー(ペンネームのように書き手が特定できる形で情報発信する人)が混じっていても、その後ろ側には実在の「人間」が居るわけです。それらを「ネット上の移したもの」という定義は、ごく自然なものです。ソーシャルグラフとはそういうものなはずです。

改めて確認しておくと「匿名=ヴァーチャル」という関係ではありません。SNSの様々な機能がヴァーチャルな人間関係の本質性を強化しつづけている、というのが正しい現状認識であると考えます。

ただ、そこに「実名で交流すべき」とか「(2ちゃんねるを念頭に置きながら)匿名だから日本のインターネットは残念」といった「有るべき論」が加わると、どうも議論にフィルターが掛かるようです。

【日本の議論】ネット上は匿名?実名? 勝間和代氏vsひろゆき氏の“議論”より (1/5ページ) - MSN産経ニュース

海外のFacebookユーザーが実名・顔出しでコミュニケーションが取れる理由はなぜでしょう?私は実名であることで生じうるトラブルに対して、本人と周辺が適切に反応できる経験値を社会的に積んでいるから、と考えています。従って実名コミュニケーションによるメリットも享受できている訳であって、SNSに登録するIDを日本でも皆が実名にすれば、自動的に「巨大な公民館」としてのネットが、理想型に近づく訳ではありません。

ITシステムとしてやるべき事は、実名あるいは顕名によるトラブルを予防・救済できる仕組み作りですし(実際mixiはそこにかなりの投資をしている点がこれまで広く支持されている理由であると捉えています)、もっと長い目で社会として見たときには、ICTリテラシー教育というところに立ち戻るしかないでしょう。

そして最後、

論点3:オープンかクローズドか

Facebookは排他的だ  - Market Hack(外国株ひろば Version 2.0) - ライブドアブログ

mixi副社長の原田明典さんが、「やっと日本でもこんな記事が・・・」とTweetされたのは、ちょっと驚いたのですが、競争相手に対するポジションを考えると、コメントをされたかったというところなのかなと推察しています。

冒頭こちらの記事では映画『ソーシャル・ネットワーク』の冒頭部分、ザッカーバーグの"Because it’s exclusive and fun."というセリフを取り上げて、彼自身がFacebookが「排他的だ」と言及しているじゃないか、と指摘します。

しかし、どうも変です。日本語的に考えても「排他的」だし「楽しい」ってなんだか意味が通らなくはありませんか?

WikionaryによるとExclusiveの形容詞の項には以下のようにあります。

  1. exclusive (comparative more exclusive, superlative most exclusive)
  2. (literally) Excluding items or members that do not meet certain conditions.
  3. (figuratively) Referring to a membership organisation, service or product: of high quality and/or reknown, for superior members only. A snobbish usage, suggesting that members who do not meet requirements, which may be financial, of celebrity, religion, skin colour etc., are excluded.
  4. Exclusive clubs tend to serve exclusive brands of food and drinks, in the same exorbitant price range, such as the 'finest' French châteaux
  5. exclusionary
  6. whole, undivided, entire
  7. The teacher's pet commands the teacher's exclusive attention

id:satohhide さんが、この記事にコメントしているように「この場合のexclusiveって「粋な」という意味だろうから字幕は間違っていない」、つまり上記の3番の意味に近いというのが正しい理解であるように思えます。仮に会員制であることを持って、「閉鎖的」と断じるのもやや強引と言えるでしょう。仮にそうなら当初招待制のみだったmixiの方がよほど「閉鎖的」です。

最初に例を挙げた水谷さんの記事同様、少々「煽りが過ぎた」というところかも知れません。

もちろん、(本来この記事ではこの例を引くべきだと思いますが)Gmailへのアドレスのインポートを許さないといった施策を持って「閉鎖的」という批判は成立すると思います。

GoogleがFacebookによるGmailデータの自動インポートをブロック、対立激化 | ネット | マイコミジャーナル

ただし、この問題は(Facebookの出自が学内交流を目的としていたから未だ現在もクローズドだという零点答案はともかく)プラットフォーム・リーダシップと大いに関わる論点です。mixiにしても、先日のオープン化の前は、アプリにしかソーシャルグラフの外部利用を認めていませんでしたし、その前は全くクローズドだったわけです。

クローズドの是非そのものよりも、ソーシャルプラットフォーム間の競争で、各社パラメータを随時調整しているというのが実情で、Facebookだけを批判してもまた似たような問題が別のプラットフォームで起こるはずです。投資顧問会社に勤める広瀬さんが、仮に何らかの理由でmixiを応援するという立場であればこの方法ではうまくいかないでしょう。

ASCII.jp:mixiはFacebookの日本侵攻を食い止められるか?|まつもとあつしの「メディア維新を行く」

という具合に3つの論点から見てきましたが、冒頭触れたように共通するのは「言葉の定義を大事にしましょうよ」ということかも知れません。湯川さんが「蛇足」で指摘しているような「議論の価値」を抽出するには、まずは発信者・受信者双方に言葉を大事にしないことには、残念ながら議論そのものが成立しないということを確認した一連の記事でもありました。これ、ソーシャルネットワークにおけるヴァーチャルな関係性を突き詰めるときにも現れる課題の一つとも言えそうです。

香川県で講演してきました

2010年10月30日の土曜日、香川県の「e-とぴあ・かがわ」というところで講演してきました。
高松駅からほど近い場所にあり、県の委託を受けた民間企業グループが運営する施設です。
県民のIT化を進める目的で様々な講座やイベントを行っており、今回お声が掛かった次第。

毎年、春と秋に特別講演が行われていて、前回はヒマナイヌの川井拓也先生( @himanainu_kawai )がUstreamの話題を中心にお話しされ、大変好評だったそうです。その後を受けて私とは恐縮だったのですが、「スマートフォンクラウドサービス」について1時間半話してきました。

前日の深夜、台風が通過したばかりで、まだ天候が良くない一日でした。実際、他の県内のイベントは中止になったものが多かったようです。それにも関わらず100名近い方にご来場頂き、予定を前倒しして遠征した立場としてはホッと一安心。

講演内容は、拙著「iPhoneGoogle活用術」をベースに、スマートフォンGoogleなどの各種クラウドサービスをどう組み合わせれば、仕事やライフスタイルが変わっていくのか、実演を交えながら解説をしていく、というものでした。

できるポケット+ iPhoneでGoogle活用術

できるポケット+ iPhoneでGoogle活用術

講演ではTwitterの活用についても少しだけ触れたのですが、後日こんなメッセージも頂きました。

講演後集計頂いたアンケートでは、大変満足・満足を合わせると、なんと88%の方が満足(不満は0%)という結果でした。
(ちょっと情報商材っぽい導入・・・笑)

講演の内容はスライドをご覧頂ければだいたい雰囲気は伝わると思いますので、それを通じて感じたことなど少し。

▼ちょっとメタな視点から

講演後の打ち上げでも話題に上がったのが、こういった公共性の高い取り組みでの、人材育成の成果を数値化することの難しさでした。

2005年前後にあった「プロデューサー人材育成」に対する関心の高まり、予算の投下、各種専門学校・大学院の新設というブームも一段落。今振り返ると、その後の成果を測ることの困難に行き当たります。一般の方へのIT教育にも通じるものがあります。

講演では高齢の方(あとで伺ったところ80代の方だそうです)が90分間「ウンウン」と頷きながら、自分のスマートフォンをいろいろ手元で試そうという姿が壇上からも見えました。現在では施設側が音頭を取らなくても、自発的にITを使った活動を行ったり、施設の運営を支援する「クラブ」が多数生まれているそうです。

世間ではいわゆる箱物行政に対する批判が根強いのですが、このような「場」が無ければ生まれなかった成果を目の当たりにしました。こういった人やコミュニティの成長をどう評価するか?その手法がまだまだ確立されていない、というのが問題かも知れません。

どうしても、行政の予算に関わる取り組みでは、予算の投下に対して、その回収の成果が求められます。これ自体は当たり前の事です。しかし、例えばプロデューサー育成でも、仮に何ら資格を与えて世に送り出したとしても、その後直ぐに大ヒット映画を自分のクレジットで生み出すことが出来るかというと難しいのです。

IT人材であれば、おそらく自分の身の回りのちょっとした情報化、プロデューサーであればまずは何らかの組織や人に弟子入りして下積みに入るでしょう。そういった成果を数字で目に見える形で問うのは難しいのです。

私が所属する研究室では、コンテンツ分野の人材育成を研究テーマにされているメンバーも居ます。その意義を改めて感じた機会でもありました。

▼IT教育からICT教育へ

ITへの習熟度を測る、という意味ではTwitterなどでの情報発信数をカウントするのも一手なのかも知れません。つまり、ツールとしてのITを使いこなした次の段階として、ITを使ったコミュニケーションの活性化を測る、ということです。

講演中の質疑応答や、講演後の受講者の方とやりとりでも、「フォロワーをどうすれば増やすことができるのか?」、「不特定多数の相手ではなく、興味関心の近い人に向けて呟きを発するにはどうすれば良いのか?」といった質問が寄せられました。 ICTに対する関心の高まりを実感したのでした。

BLOGに比べTwitterでの情報発信は手軽ですが、発信する内容や、フォロワーとのやり取りでは一方通行での情報発信に留まりがちなBLOGに対して高いリテラシーを求められます。しかしそれは本来ITプラットフォームにおけるコミュニケーションで必要とされるべきものです。

孫(まご)にパソコンで年賀状を送れた、というところから更に一歩踏み出すには、Twitterは良い題材になりそうだなとも思いました。結果、計量可能な、そういったITプラットフォームからの情報発信「数」を増加させるということにも繋がるはずです。津田さんの本にもそんな事が書いてあるはず(まだ読めていないのです・・・すみません)

Twitter社会論 ~新たなリアルタイム・ウェブの潮流 (新書y)

Twitter社会論 ~新たなリアルタイム・ウェブの潮流 (新書y)

といった具合に、東京に居てはなかなか思い至らないことにも気づかされた良い機会でもありました。
お声がけ頂き、当日綿密に準備を整えて頂いたe-とぴあ・かがわの関係者の皆様と、お越し頂いた受講生の皆様に改めて御礼申し上げます。

うどん美味かったです。

ストレスフリー・ツイッター術

論文やら新書の執筆やらですっかり時間が掛かってしまったけど、ようやく渡辺由佳里(@YukariWatanabe )さんから頂いた本を読了。

ゆるく、自由に、そして有意義に──ストレスフリー?ツイッター術

ゆるく、自由に、そして有意義に──ストレスフリー?ツイッター術

糸井重里さんが「いい家庭教師と、ゆったり話しているような本です」と帯に言葉を寄せているように、平易な言葉で、Twitterをこれから始めようかな、という人から、Twitterを日々使っているけど、最近ちょっとストレスを感じるな・・・という人にまで広くお勧めできる一冊だと思いました。

実は私がこの本を読むのに時間が掛かったのには、もう一つ理由があります。

2009年の年末から今年の初めにかけて、「Twitterでフォロワー1000人できるかな」という集中連載を担当していたことがあったからです。思わずそのときのことを振り返りながら読んでいたら随分時間が掛かってしまいました。

こちらの記事の冒頭で書いたように、Twitter始めたけどいくらツィートしても反応が少ないとつまらない・林信行さんが言うようにTwitterをリアルタイム検索エンジンとして使えるくらいになりたい、という極めて単純な動機からはじめた企画です。

つまり、フォロワーをある程度増やさなくちゃ、ということに行き着きます。いろんな事を試し、読者の方からも様々な反応がありました。結果として大勢の方に私のアカウントをフォローして頂くことにもつながりました。

しかし、渡辺さんが本書第4章「ツィッターの迷信と真実」で戒めている「フォロワー数=ステータス」、という風潮をもしかしたら助長してしまったのではないか、という反省があります。記事の中でも折に触れて、数を追求することが目標ではない、とリマインドはしたものの、今でも時々「どうやったら、手っ取り早くフォロワーを増やすことができますか?」という質問を受けて躊躇することがあるのです。

「ゆるく、自由に、そして有意義に」では、まさにその質問に対してうまく答えているし、最近Twitterを眺めていて毎日のように起こるスパム的な行為、晒しあげ、人格攻撃に対してストレス少なく対処する秘訣も紹介されています。

積極的にフォローを続けることで、フォロー返しを受け、結果的にフォロワーが増える、という仕組みは確かに存在しています。ただ、リストやクライアントのカラムを使っても限界はあります。本書では3000をその上限として例を挙げていますが、私もその辺りが限界です。

それに気づかせてくれたのは、2,001人を超えるとフォロー数の1.1倍しかフォローできない、というTwitterの仕様でした。ある日フォローができなくなり、そこからまたTwitterに対する向き合いかたが変わった――ある意味自分の中での「Twitter祭り」が終わった瞬間でもありました。

もちろんインフラへの負担も考慮しているとは思いますが、こういう仕組みを設けているTwitter社は賢いなあと思います。この上限を超えてフォロワーを増やすには、本書で「悪い例」として紹介されている幾つかの努力が必要となるのですが、その履歴も少し調べれば分かるようになっている訳です。

渡辺さんはTwitterを「パーティ」に喩えて話を展開されていて、これが最後までスラスラと本書を読める流れを生み出しています。パーティの場で幾ら目立つ行為をしたり、沢山の名刺を集めて廻ったとしても、パーティを離れた日常に実が無ければ、虚しいだけでしょう、とやさしく、しかし的確に指摘をされています。

Twitterの登場当初は、あたかもその場をユートピアのように喧伝する向きもありました。実名で、お互いが批判・非難することなく、助け合いが実現するような場にしましょう、といったような語られ方がしたものです。しかし、人間が集まる場である以上、揉め事はつきものです。ある面で人間は当事者・傍観者ともそういった事態を望むという性(さが)もあります。

賑わってきて、様々な人が次々と参加するネットコミュニティとは、必ず変質していくというのが現実ですから、その変化を嘆くよりも、賢く振る舞える術を身につけて引き続きその場を有意義に楽しむというのが合理的でしょう。

おおよそ、良著というのは本来読むべき人になかなか読んでもらえないというジレンマがありますが、冒頭に挙げた初心者〜中級者(という分け方が最適かはさておき)が、一読しておくことで、要らぬストレスやトラブルから解放される、予防薬となり、悲しいかな既に巻き込まれてしまった人にも、きちんと傷を癒してくれる、そんなお薬のような一冊でした。

こちらから見本もダウンロードできるそうです。