まつもとあつしの日々徒然

はてなダイアリーからようやく移行しました

ブランドとマーケティングの狭間で――VAIOスマホは何を間違えたのか?

ほぼ半年ぶりの更新です。ジャーナリスト兼ブロガーへの道は遠く険しいものがあります。

さて、昨日すっかり炎上してしまいましたが、当日の記者会見、その後行われたニコ生でも(司会を務められた石野さんはすごく頑張っておられましたが)その本質は明らかになってなかったと思いましたので、簡単に。

記者会見の時、「ど真ん中を狙った」として示された図がこれでした。(週アスPLUSさんのページから引用)


出典:『VAIO Phone VA-10J』発表! 発売は3月20日 VAIOスマホ発表会 リアルタイム更新【更新終了】 - 週アスPLUS http://weekly.ascii.jp/elem/000/000/313/313973/

この構図そのものに異論は少ないはずですし、MVNO事業者としての日本通信がこのカテゴリに製品が、それも日本メーカーの製品が欲しかったことは非常に良く分かります。しかし、果たして新生VAIOとしてはどうであったか?

ここでこの図を切り出して、横向きにしてみましょう。

その上で、マーケティングの世界で頻繁に引き合いに出される例の有名なキャズム理論の図を見てください。(すみません、ちょっと及川さんのブログから孫引き)


出典:はてなFirefox濃度が高いという仮説 - Nothing ventured, nothing gained. http://takoratta.hatenablog.com/entry/20060619/1150676854

で、上の図と下の図を頭の中で重ねあわせてください。

いかがでしょう?日本通信さんが示した図はあくまでSIMフリー市場を示しているので、微妙にまた切り口が異なるのですが、彼らが考えるストライクゾーン=マジョリティを狙って放った球であることは良く分かります。

一方、VAIO社が「ジムからガンダムへ」と究極を目指して開発されたVAIO Zはまさに、イノベーター・アーリーアダプターを狙い撃ったものでした。私自身もいまこの記事をZで書いていますが、キータッチの反応も、各種操作の応答速度も、筐体の剛性も何もかも素晴らしいと思います。

Appleマーケティングでもよく指摘されるように、イノベーター・アーリーアダプター層が製品を熱心に支持して、あとに続くマジョリティ層に「布教」するからこそ、製品としてのヒットが生まれます。(もちろんマジョリティ層に対する「安心感」の演出は別途必要です=Apple CareやGenius Bar等)デジタル時代にあって、お店の前にあれだけ行列をさせるのも、その構図をよく理解しているからと言えるでしょう。

翻ってVAIOは、改めてこの層へのアピールの第一弾が(おそらく)成功したばかりです。そのことをもって、凡庸なスマホVAIOのロゴを冠したからといって、イノベーター・アーリーアダプター層が熱心に布教するはずもありません。むしろ私も含めて彼らはそっぽを向き、マジョリティ層も、「なんだか良い評判があまり聞こえてこないな」という反応しかしようがなくなります。VAIOと名乗った途端に、比較対象はいわゆる格安エントリー機ではなく、販売単価が高いことでも注目*1を集めるハイエンドなVAIO PCが比較対象になるのです。(この点には別の商機もあると思いますが、それは今は置いておきます)

このVAIOスマホ、1月にはこのような報道もありました。例の「箱だけ会見」のときですね。

参考:日本通信VAIOスマホのパッケージを初公開。2月の発売に向け準備は順調 - PC Watch http://pc.watch.impress.co.jp/docs/news/20150130_686152.html

これ良く読むと、「設計変更を余儀なくされ」という話のあとに、日本通信としての業績見通しが示されています。おそらくこのあたりがターニングポイントであったのでしょう。

このディール、日本通信としてはあまり失うものがありません。日本の著名メーカーの名を冠したミッドレンジのスマホは、確かに彼らにとってのストライクゾーンど真ん中であったでしょう。「日本メーカー、あのVAIO日本通信と協業した。製品単価も十分に確保している、だから他のメーカーも参加して欲しい」といった趣旨の発言がニコ生でもありました。

しかしVAIO社にとってはどうでしょうか?会見後の囲みでは「これからの取り組みにも注目して欲しい」と苦しい回答が続きましたが、率直にいって、自らのブランド価値を理解していたのか、それをどうすれば育んで行くことができるのか、スマホの分野において本気で考え取り組んでいたのか、大きな疑問が残ります。

ELUGAと変わらない端末を選択せざるを得ないなら、VAIOのブランドは冠せない、ODMになるのはやむを得ないにしても、ブランドの名にふさわしい価値を備えた端末の選定や設計に時間を掛けるべきだ――そう主張できる立場にあったのは、VAIO社の他ありません。あるいは、VAIOのブランドを冠さず、他のブランドを日本通信と協力して仕立て衣装としてまとわせる、といった別の選択肢もあったはずです。

独立して、いろいろと厳しい局面があるのは重々想像ができるのですが、それでもイノベーター・アーリーアダプター層とブランドとの信頼関係を大切にして欲しかった。がっかりされるうちが花です。次の一手で真価が問われると思います。

キャズム

キャズム

#2015/03/13 19:51 少し文章を直して自分のTweetを追加しました。

*1:VAIO Z、13型ノートで断トツの平均単価に 〜量販店での販売開始も、数量を追わない姿勢は変わらず - PC Watch http://pc.watch.impress.co.jp/docs/news/20150310_691995.html

「意識高い」とはどういう状態か?なぜバカにされるのか?という話。

エヴァQ、実は初見だったのですが、評判通り訳が分からなかったです。20代から謎に付き合わされている身としては、そろそろ決着を見せて欲しいところだけれど、そもそも謎に対する答えや落としどころの用意されていない物語なんだろうな、と約20年を掛けて確認しているところです。というか、社会人経験を積めば積むほど、「え!?なんで、そこでちゃんと説明してあげないの?」というツッコミどころの方が気になってしまい・・・・・・。でも、この話、頭から終わりまで「ほうれんそう」が出来ていたら、多分成立しないんだろうな、とも。

そんな感じで、Twitterを眺めていたところ、津田さんが話題のマトリクスにツッコミを入れておられたので、その件について少々。

はい。仰ること、とてもよく分かります。と、同時にいわゆる「意識高い系」に自分も含めて多くの人が「イラッ」としていることも事実。さて、落としどころはどこに?

このマトリクス(※現在削除されているようです→#2014/09/07 図を再掲されたので、こちらもリンクを追加しました)、基本的な考え方は間違っていないと思うのですが、縦軸に「実力」と置いているのが、改善の余地があると言えそうです。実力ってなんだろう?誰がそれを測るんだろうか?本人は「ある」と信じているからこその意識高い系であり、周囲は「ない」と感じるからこその批判であり、同意も込めたRTがこれだけ積み上がるのでしょう。

ちょうど今、このテーマを正面から扱った(と僕は思う)ドラマが人気です。

アオイホノオ DVD BOX(5枚組)

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80年代を舞台に描かれるこの作品。主人公ホノオモユルくんは、物語序盤は「俺には実力がある」と信じて疑いません。その根拠が初期のあだち充作品などに価値を見出し、俺が評価している、という目利きの才能にある、というのも、どこか現代の「意識高い系」に通じるものがあります。(だからこそ、いまこの物語が取り上げられたのかも知れませんね)

ところが物語が進むにつれ、後にガイナックスを創業することになる同級生アンノヒデアキさんらの活躍にも刺激され、彼はマンガの持ち込みを決意します。作品の方向性に迷ったり、実際に作品を描く際に思いもよらない困難が立ちふさがったりと、七転八倒の末、作品が完成し・・・・・・。

ざっくりとした紹介となってしまいますが、このような流れで物語は進行します。物語のカタルシスの1つは、主人公が信じて疑わない「実力」が、実際に行動を起こすと、現実には全く通用しないものだと思い知らされること。そして、持ち込み〜プロマンガ家デビューへという「実績」を何とかつかみ取ろうとするその姿にあるのは間違いありません。

ということで、先ほどのマトリクス、縦軸を「実績」としてはどうかなと思いました。客観的な「実績」であれば少なくとも、主観的な「実力」よりも本人も周囲も測りやすい。実績がなければ相手にされないのは現実だし、逆もまた然り。そして、実績がなくても応援してくれる周囲の人々が、かけがえのない存在であることも物語では繰り返し描かれているようにも思えます。

原作のオカダトシオさんのセリフで思わず膝を打ちました。以下引用で締めくくります。

よく、『これは俺が先に考えてたんや!』って言うアホがおるけど・・・
一番みっともない言葉や。
自分が先に考えたのにやらんかったんや。
それをえばっとんねんからホンマのアホやで!
先に考えてんやったら
先にやらな!!



#2014/09/06 追記
起きてホッテントリ入りしてびっくりしました。
加野瀬さんのコメントから読んで頂いた方が多いのかも知れないですね。

まつもとさんの親切な解説。自分しか認識できない「実力」をどう実績に変えていくのか?というのは難しい

「自分しか認識できない「実力」をどう実績に変えていくのか?」というのは、この問題への本質的な問いかけです。

ちょっと宣伝ぽくなってしまうのですが、実は堀正岳さんとの新著でその問いへの答えを「3極モデル」という形で整理していたりします。

知的生産の技術とセンス ~知の巨人・梅棹忠夫に学ぶ情報活用術~ (マイナビ新書)

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これについても、いずれ詳しく(もしかすると堀さんのブログなどで、となるかも知れませんが)紹介することができればと思っています。

Twitterでのコミュニケーションのこと、あるいはアイデンティティの拡散のこと。

思い出のマーニー、良かったです。

それに触発されたかも知れません。コミュニケーションについて個人的なメモも兼ねて。少々長文で以下マーニーとは(ほぼ)関係がありません。

今でこそ、インタビューや司会・講演のお仕事などもさせて頂くようになりましたが、大学生のころまでは人前で話すことが本当に苦手で、飲み会でも貝になっているクラスタでした。自分が話したことが、相手にどう受止められるのか、とても怖かったんだと思います。

それを変えるきっかけになったのが当時の先輩で、とにかく何か話せ、自分がフォローするからと言ってかなり強引に背中を押してくれたんですね。最初のころは、「僕つまり・・・思う・・・こういう風に」という具合に日本語としてもかなり危なげだったはずなのですが、その都度その先輩が「まつもと、面白い!」ってフォローしてくれて、だんだんと自信がついていったのを覚えています。

当時から文章を書くのは得意な方でした。でも、ブログどころかネットすら無かった当時は文章で自分を表現しても相手に伝えることはとても難しい時代だったと思います。「自分の文章を読んでください」とお願いするのも、まずはリアルな空間で会話を通じてフィジカルに行わざるを得ない、ということが多かったのではないかと。

その後ブログが登場し、いまやTwitterも存在するわけで、文章で自分を表現して相手にそれを伝えるということは格段にハードルが下がりました。たった140文字で自分を世界に表現できるなんて!

しかし、一方でふと違和感を覚えることも増えたのです。Twitterでのコミュニケーションって一体なんなんだろうかと。

TwitterFacebookのようなSNSではなくメディアだと、Twitter社自身も定義しています。しかし昨年夏に世間を騒がしたバイト先でのイタズラ投稿などを追いかけると、身近な友だちとのやり取りに使っているケースが多いことに気づかされます。また、パソコン時代のフォーラムのように見知らぬ人とのコミュニケーションを楽しむ人もいます。

わたし自身もTwitterを使い始めた当初は、そんな使い方に面白さを感じていました。自分がフォローした人からメンションをもらったり、逆に自分をフォローしてくれている人からコメントをもらったりすると、「おお」と興奮することも多かったと記憶しています。(その経緯は、インプレスさんでの体当たり企画で記事としても纏まっています。フリーランスとして駆け出しだった自分にとって、Twitterはメディアである以上に、コミュニケーションのための道具であったということがよく分かります)

しかし、フォロワー数がある程度増えて、自分の活動領域も広がってくると、首を傾げたくなるようなコメントや、明らかな煽りや炎上狙いのメンションを受け取ることも増えていきました。例えばこれとか。当時、ここで絡んでいた人はTweetの合間に「バカ」など罵倒を含めていたのですが、Togetterにまとめる際にそのTweetは削除して「バカと言ってないのに、罵倒したと言いがかりをつけている」という具合に纏めていたりもします。「微妙なバランス」と言ったものを、タイトルでは「絶妙」と読み替えてあるなど、なるほどそうやって炎上を演出するんだなと妙に感心した記憶があります。

そんな出来事があってから、うん、やはりTwitterSNSじゃなくてメディアだなと腑に落ちたのでした。よく「匿名なのは卑怯だ」という批判があったりしますが、そういうことではなく、実名であろうが顕名であろうが、この空間でのコミュニケーションはリアル空間でのフィジカルな濃密さには及ぶべくもなく、あくまでも道具であり、そこになんらかの「目的」(ゴールや理想と言い換えても良いかも知れません)を求めても虚しいことになるな、ということです。

かつてのフォーラムは閉鎖された空間であったために、その場の暗黙のルールや管理者による交通整理が期待出来たわけですが、原則としてオープンな場であるTwitterは、そういった空気や文脈と切り離された形でコミュニケーションの一部が、場合によってはグロテスクに紹介されることもある。そして、それによって受けたダメージというのはなかなか直ぐには回復が難しいわけです。

そこまで大げさな事例でなくても、例えば「いま悩んでいる」というTweetに対して、フォロワーが「よしよし大丈夫だよ」と慰めてくれても、次の瞬間にはまったく別のトピックスに彼・彼女は楽しそうに反応していたりする。フィジカルな空間では窘(とが)められるような行為が、スマホでのアプリの切替え、テレビのザッピングのように普通に(本人には悪気無く)行われている空間でもあります。

あるいは「ブロック」がまた特徴的です。気に入らなければその人の投稿を即座に目に入らないようにすることができる。村上春樹の「風の歌を聴け」に「パチン・・・・・・OFFさ」という印象的なセリフがありますが、まさにそんな感じ。

そんな風に考えていた時に、ある人からこんな記事を教えてもらったのでした。
やる気がわいてくるたった1つの方法:ツイッターじゃ消せないむなしさ - 誠 Biz.ID

ここで紹介されている「アイデンティティの拡散」は、エリクソンの自我同一性拡散と言った方がその筋の人には分かりやすいかも知れません。

ちなみに記事では4つの兆候が紹介されていますが、専門的にはこちらの6つの分類がより詳しいです。
自我同一拡散

例えば、ここに挙げられている「対人的距離の失調=暫定的な形での遊技的な親密さや一時的可逆的なかかわりあいが、本人の対人的融合になってしまう」などは身近な人でも苦労されている例がしばしば見受けられます。

確かにTwitterでのコミュニケーションはアイデンティティがある程度確立されていないと、難しいものがあると感じます。自分自身のスタンスが定まらないままに押し寄せるメンションに応じ、何らかのきっかけでうっかり問題発言を行ってしまい、それがRTされたりした日には、まさに悪い意味での拡散となってしまいます。

いかにも米国発のサービスらしいとも言えそうですが、自由であり、オープンであるということは、応分の責任を負うだけの自我が求められるということかも知れません。(余談でありますが、従って鬱病など精神的に厳しい状況にある人はTwitterからはしばらく距離を置いた方が良く、周囲もそのつもりで対応した方が良いというのが持論です)

さて、この記事で目を引くのは、ここからニーチェを引き合いに「現代人は神話を奪われている」という主張を紹介している点です。神話=物語と自我の形成は密接な関係にあることはフロイトも指摘しているところですが、アイデンティティの拡散と神話の喪失という流れで「Twitterでは消せない虚しさ」を説明するというのは上手いと思いました。(本のタイトルのように「やる気がわいてくる」話かどうかはともかくとして)

やる気がいつの間にかわいてくるたった1つの方法

やる気がいつの間にかわいてくるたった1つの方法

僕は以前から、「ネット依存」という言葉には強い反感を持っています。病気と認められた訳では無いのに「ネット依存症」と「症」を付けるのはもってのほかであるというのはもちろんなのですが、「いつもTwitterやLINEをやっていてけしからん」という意味でその利用を制限する、その際にこの言葉が用いられるのはヘンです。端的に言えば雑な議論だと思っています。インターネットがこれだけ普及し、多様なサービスが存在する中、「ネット=悪」と十把一絡げにした議論をするのは不毛であるばかりか、有害とすら思います。

「お風呂中は使いません」宣言用紙をスマホ契約時に配布、都がネット依存対策 -INTERNET Watch

だから、Twitterへの「依存」が問題であるという主張はしないつもりでいます。そうではなく、先の記事で説明されていた神話、物語の喪失というのが問題の本質だと考えています。「こうありたい、こうあるべき自分」という自我を支える物語が現実空間で得にくいところに、仮想空間で社会を形成しているMMORPG(オンラインRPG)はある種の生きがいを提供し支持を拡げた側面は否定できないはずです。「ネット依存」という言葉を普及させた久里浜医療センターの樋口進院長自らも、ネットの進化によって他のサービスがその原因になり得るかも知れないと前置きした上で「現在までにセンターに寄せられた相談はオンラインゲームが圧倒的に多い」とコメント*1しています。個人的にはそうであれば「ネット依存」という言葉ではなく「オンラインゲーム依存」とした方が、少なくとも現状を表すには適切では無かったのではないかと感じてもいます。

おそらくこの問題は、その当事者がいま置かれている状態――つまり「物語」を喪失して生きづらい状況にあるのか、現実社会の延長線上にある場でのコミュニケーションツール(既にある物語を補完する)としてネットと向き合っているのか、はたまたスティグマを抱えたもの同士が互いを理解し、良くも悪くも慰め合う(新しい物語を紡ぎ出す)場となっているのか――といった場合ごとに事情や、注意すべき点などが異なってくるはずです。

そういった辺りを気に留めながら、ネットをコミュニケーションの「経路」として利用しながら、本質的には現実空間で向き合い、時にはぶつかり合うことで互いの、あるいは社会の物語を共有していく他ないのだろうなと、改めて思う次第です。マーニーにはネットは登場しませんが(スマホすら出てこなかった?)、バーチャルな空間での交流の背景にあるものが、やがて現実世界との関係で解き明かされていく終盤の展開は見事だと思いました。

#2014/08/08 14:50 自我同一性拡散についてのリンクと例を追記しました。

*1:記者の眼 - 子供のネット依存、治療に当たる久里浜医療センター院長が「生易しい問題ではない」と警告:ITpro http://itpro.nikkeibp.co.jp/article/Watcher/20130720/492762/

(告知)マチアソビに参加します

世間ではもう連休が始まったということを先ほど知って、驚愕しています。

さて、その連休中(5月3日〜5日)に徳島市マチアソビが開催されます。

今回、元オタクラート・現在はオックスフォード大でアニメを研究している三原龍太郎さんと一緒にパラソルブース「アニメ学研究所(仮)@マチアソビ」を出展することになりました。

そして、初日には京都精華大学でアニメーション史を研究されている津堅信之先生もお招きして「アニメ研究者緊急対談@マチ★アソビ! クール・ジャパンの明日はどっちだ?」と銘打ったイベントを行います。まつもとは進行役を務めます。

日時:5月3日(土)10時〜11時
於:両国橋南公園ステージ

1. そもそもクール・ジャパンとはなんなのか?

2. なぜ批判されるのか?

  • 推進会議を中心とした問題点
  • 国が後押しすると育たない?
  • メディアの報じ方/ネットの受け止め方

3. クール・ジャパンを好機にできるのか?

  • クール・ジャパンをどう捉えればよいのか?(ユーザー・業界)
  • 見るべき、チェックすべきメディアはあるか?
  • 政策はどのようにあるべきか?
  • 研究はどのようにあるべきか?

お二人は、最近著書を出されたばかりのまさに第一線のアニメ研究者。津堅先生にはインタビューをさせて頂いたこともあります。

相変わらずネットでは炎上しがちなクール・ジャパンをどう捉えていて、僕たちはどう向き合えばいいのか?そのポイントを明らかにできればと考えています。パラソルブースには私たちはもちろん飛び入り参加頂けるアニメ研究者も来場される予定です。書籍も一部販売します。

マチアソビ自体は何度も取材したり、イベントの司会を務めさせて頂いたりしていますが、出展するのははじめてで、実は分からないことだらけ。マチアソビにお越しの際には、生暖かく見守って頂ければ幸いです。

震災3年目も泥を運ぶ(記事振り返り)

東日本大震災から3年が経ちました。節目ではありますが、ひと区切りではないという認識です。
これまで取材・執筆してきた記事を振り返ります。(順不同・執筆記事の全てではありません)

ボランティアをしながら取材を行った東北でも、いまもがれき撤去と行方不明者の捜索を続けている人たちが大勢います。工場という生活の糧が失われてしまった町で、新しい産業を生み出そうと奔走されている方々への支援も続けられなくてはなりません。

被災地の困難をITはいかに解決することができるのか、問われ続けた3年間でもあったと思います。直下型地震がいつ起こってもおかしくないとされるここ東京も明日は「被災地」になるかも知れず、その備えは十分なのか?(そしてそれは先日の大雪による混乱などを見ても、まだまだ道半ばであると思えます)そんなことを考えながら都内でも取材を行いました。

震災直後の混乱、あるいはとても神経を使う取材や記事上の表現に共に尽力頂いた編集担当の皆さま、現地で案内やサポートを頂いた皆さま、そして取材に応じて頂いた皆さまに改めて感謝します。

自分の専門領域からは、未曾有の震災によって詰まるところ「誰のためのITなのか」という本質的な問いが表面化したのだと捉えています。このあたりは以下の本で言及しました。

[asin:B009PDWPMY:detail]

わたしにとってボランティアで泥を運ぶことと、様々な取り組みを記事で紹介することは同じくらい大切なことでした。3年という節目を経て、メディアの関心は離れていくのもまた事実ですが、引き続き復興の取り組みや、次なる災害への備えを追いかけていきたいと考えています。

コグレさんとの新刊「LINEビジネス成功術」イベントやります

LINEビジネス成功術-LINE@で売上150%アップ!

LINEビジネス成功術-LINE@で売上150%アップ!

「『成功術』ですか…」。先月発売となった新刊とのタイトル案を見たときに、口をついて出たのはこの言葉でした。ジャーナリストと研究者という立場=客観的な考察や批評が求められる人間としては、「成功術」というタイトルに一瞬戸惑いを感じてしまったのです。

けれども、コグレさんとのはじめての共著からわずか半年あまりで世界的なサービスとなったLINEに、個人商店でも商売に使える仕組みが整ったというのは、やはりすごいことです。iモードの時だって、CHTMLを使って「勝手」サイトを展開することは可能でしたが、運営しているLINE社が自ら審査やフォローアップを行うというのですから。

そのLINE@を中心に、私たちの本の少し前に出版された「LINE@ 公式ガイド」の著者植原正太郎さん(トライバルメディアハウス)、コグレさん(ネタフル)、私とで10月23日にイベントを行うことになりました。場所はコグレさんの地元にほど近い大宮です。

ヤフージャパンがショッピングやオークションを無料化するなど、Eコマースに大きな変化が訪れようとしていますが、大きな会社じゃなくたって地方や街のお店がITを使って、機会を掴むことができるような仕組みが整いつつあります。コグレさんのご尽力、大宮で商店街の方々のご協力を得て、今回のイベントが実現したのも、こういった時代背景もあってのことだと感じています。

当日は、この大きな潮流と、手軽に始められるLINE、LINE@との関係と、これからどうなる、、やるべきこと・やっちゃいけないことってなんだろうといったテーマでお話しして、皆さんと意見交換できればと思っています。お時間とご関心ある方は是非無料です。会場費のみ500円でした。すみません!

Twitterへのバカ写真投稿と意識高い人に共通する病

冷蔵庫に入ったり、食材の上に寝っ転がったりする様子を写真に撮り、Twitterに投稿するのが流行っているようです。

朝日新聞デジタル:(ニュースQ3)モラルなきアルバイト店員の悪ふざけ、対策は? - ニュース

一部には、これを安いメニューを安い人件費で提供するいわゆる「マックジョブ」(個人的にはとても嫌いな表現です)に、その理由を求める人も居るようですが、それは違うと思います。高級ホテルや会員制のクラブなどでも、同様の事件が起こっているからです。また、コンビニはそもそもディスカウントじゃなくて定価販売してるよね、という指摘もありました。

フランチャイズ契約を即刻解除されたコンビニ店もありましたが、気の毒なのはオーナーです。
もちろん監督責任は免れませんが、バイトの心ない行為で積み上げてきた物が一瞬で失われるわけですから。

では、なぜこんな事が流行っているのか?

実際に当事者に理由を尋ねてみたいところですが、いわゆる「意識の高い人」にも共通する一種の病がそこにはあるのではないかと考えています。

  • (非常に観測範囲の狭い)周囲に迷惑を掛けていないのだから良いではないか、という判断。
  • 日常的に近くにいる「大人」が適切なフィードバックを与えていない。そういう人を遠ざけている。
  • RTなどソーシャルメディアでの反応をポジティブな「評価」と勘違いしている。

仮に、このように共通する背景がそこにあるとすると、アクセス向上のためにはいわゆる「炎上」を良しとするブロガーさんが、こういった事件の理由を職場環境に求めるのは、滑稽だし彼らが言うところの「上から目線」な話だなと思った次第です。

(2013/08/073:16追記)
これを書いてから、店長さんの以下のエントリーを知る。
「うちら」の世界 - 24時間残念営業
そう、彼ら(バイト)がバカだ、という一言では片付けられないんですよね。
とはいえ、明らかに損害を与えている訳で、まず責められるは彼らだし、社会的な責任を認識してもらう必要がある。(本当は一線を越える前に、周囲の大人が諫めないといけないのだけれど)